他責思考の人に「気づき」を期待してはいけない理由

他責思考の防衛機制
防衛機制としての他責思考。全部ひとのせい。自分は悪くない。

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認知バイアスと防衛機制に守られた“変わらない人”と、どう距離を取るか ―

人間関係において、どうしても心が疲弊する相手がいる。
それは、トラブルや不和が起きたときに、原因を一切自分には求めず、常に他者に責任を帰属させる人である。いわゆる「他責思考」の人物だ。

彼らの口癖は「自分は悪くない」「相手が問題」「環境が悪かった」。
時には、相手の心理や性格を素人診断で病理化し、「あの人は〇〇恐怖症だ」とレッテルを貼って済ませてしまう。
こうした反応の裏には、自己正当化を支える認知バイアスと、精神の安定を保つための防衛機制が根深く関与している。


恋愛における典型的な構図

たとえば、恋愛関係が深まりかけたところで、相手の異性に突然距離を置かれた場合。
連絡頻度が減り、態度も煮え切らない。
このとき、他責的な傾向を持つ人は、次のように解釈することがある。

「あの人、コミットメント恐怖症なんだと思う。」

「コミットメント恐怖症」とは、恋愛や結婚など長期的な関係に対して不安や回避的反応を示す心理傾向を指す。
親密な関係に踏み込むことで、自分の自由が失われる、あるいは傷つくことを恐れるため、一定の距離を保とうとする。

確かに、そうした傾向を持つ人は現実に存在する。
だが、この場合の問題はそこではない。
この人物が、「相手が距離を取った理由が、自分の態度や発言にあったかもしれない」とは一切考えない事が問題である。
自分が相手に対して無意識に圧力をかけていた可能性や、相手のペースを尊重しなかったことには目を向けず、
すべてを相手の“病理”として片づけてしまうのである。


認知バイアスが「気づき」を阻む

心理学では、「人は見たいように世界を見る」とされる。
他責思考の人は、自分の正しさという前提に沿って出来事を解釈するため、次のようなバイアスが常に働いている:

🔹 責任回避バイアス(Self-serving bias)

成功は自分の手柄、失敗は他人や運のせいにする。
この自己評価を守る働きによって、「相手のコミットメント恐怖症」だけが原因だと信じ込める。

🔹 確証バイアス(Confirmation bias)

一度「彼は関係を深めるのが怖い人だ」と思い込むと、距離を置かれた行動だけを選択的に見て、それを“証拠”と見なす。
自分の接し方が影響したかもしれない、という情報は無視される。

🔹 帰属の誤り(Fundamental Attribution Error)

他人の行動の原因を性格に求め、自分の行動の原因は状況に求める。
つまり「彼が距離を取ったのは、彼の性格の問題」、一方で「私はただ真剣だっただけ」となる。


他責思考は、防衛機制として「必要」だった

こうしたバイアスは、単なる思考の癖ではない。
それは、本人の深層心理における痛みからの逃避装置として機能している。

自己を守るために、原因を「自分の外」に置く。
その構造は長年にわたって積み重ねられてきた、自我を守るための防衛機制である。
自分にも原因があるかもしれないと考えることは、過去の失敗やトラウマと向き合うことを意味する。
それは、大きな精神的苦痛を伴う内省だ。

だからこそ、他責的な人は、反射的に外へと責任を押し出す。
そうしないと、心の均衡が保てないのである。


「良質な契機」さえ、役に立たない理由

人は困難や失敗によって学ぶ。
それは一般論としては真実だが、他責思考の人にとっては話が違う。
なぜなら、どんなに人間関係が破綻しても、彼らはそれを「理不尽な被害」として語り直す能力に長けているからだ。

恋人に去られたときも、
「私は誠実に愛していたのに、あの人は逃げた」
というストーリーを繰り返す。
すると、その経験は気づきの契機にはならず、自己正当化の材料として組み込まれてしまう


介入は「新たな加害者」にされるリスクを伴う

こうした人に、もしあなたが善意から「少し相手の立場も考えてみては?」と助言したらどうなるか。
多くの場合、それは非難や批判として受け取られる

なぜなら、それは「あなたにも落ち度がある」と伝える行為であり、
彼らの中の「私は正しかった」という信念構造を揺るがしてしまうからだ。

結果として、あなたは彼らの物語の中で、「分かってくれなかった人」「傷つけた人」として位置づけられ、新たな加害者として物語に登場することになる。


だからこそ、介入してはならない

他責思考の人が本当に変わるとすれば、それは自分自身の認知の歪みに自ら気づき、直視しようと決意したときだけだ。

しかもそのような内発的な気づきは、年齢とともに起こりにくくなる。とくに40代以降でこの思考が定着している場合、それまでの人生で何度も気づきの機会があったはずであり、いま改めて他者の一言で変わる可能性は極めて低い


自立した大人には、「変わらない自由」もある

本人が社会的に自立していて、周囲に重大な実害を及ぼしていない限り、
その人がどのような認知スタイルで生きていようと、それは一個人の選択であり自由である。

他責的な思考にとどまることも、
本人の人生の責任として受け入れられるべきだ。
ただし同時に、関わる側にもその人から距離を取る自由がある。


結びにかえて

「どうしてこの人は自分を省みないのか」
「どうすれば気づいてもらえるのか」
そう悩んだことがあるなら、あなたはすでにその人と深く関わりすぎているのかもしれない。

他責的な人に「気づき」を与えることは、
善意に見えて、実は心の構造への侵犯になりかねない。
あなた自身の感受性や尊厳を守るために、
変わらない人には変わらないままでいてもらうという距離感を、ぜひ覚えておいてほしい。

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