「偉い学者」と呼ばれる人々が、高尚な理論を語ることで社会に貢献してきたことは否定できない。だが、20世紀の歴史を振り返るとき、私たちはこう問わずにはいられない──その思想は、ほんとうに人間のためのもので、人間を幸せにしたのか?
マルクスとエンゲルス、サルトルとボーヴォワール。この二組の思想家たちは、知的世界に巨大な影響を与えた。だがその影響は、思想の範囲を超え、現実の政治と制度、さらには人々の心と命にまで及んだ。その結果、数え切れない犠牲が生まれた。
Contents
マルクスとエンゲルス──構造の中に人間を押し込めた思想
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、資本主義社会の矛盾を分析し、「階級闘争」という歴史観を打ち立てた。彼らの描いた理想社会──私有財産の廃止、階級なき社会、労働に応じた分配、最終的には国家の消滅──は、一見すれば美しい。しかし、その世界はあくまで彼らの頭の中にしか存在しなかった。
両者ともに中産階級以上の裕福な家庭に生まれ、労働現場を知らず、貧困と闘ったこともない。彼らの思想には、欲望、嫉妬、怠惰、権力欲といった人間の内面的複雑さがほとんど考慮されていない。「制度が変われば人間も変わる」という構造主義的楽観が、すべてを支配していた。
だからこそ、20世紀の共産主義国家は──ソ連、中国、北朝鮮、カンボジア──制度を設計すれば“理想”が実現するという前提のもとに、**現実の人間の痛みや反抗、複雑さを“敵”として排除し始めた。その帰結が粛清、強制労働、密告社会、専制国家であり、数千万人規模の命が失われるに至った。
サルトルとボーヴォワール──自由を語り、他人を傷つけた人々
ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、実存主義の旗手として「自由」「選択」「責任」を哲学に持ち込んだ。だが彼らの生き方には、学問と自由の名を借りた支配の構造があった。
ボーヴォワールは自身の教え子(多くは若年の女性)と親密な関係を築き、性的な関係を持った上で、その相手をサルトルに“紹介”するという行為を繰り返していた。これは、思想に名を借りた権力の濫用であり、未成熟な他者への不適切な関係や、権力的不均衡を利用した性的な欲望と思想的権威が結びついた構造として、倫理的に深く問題のある振る舞いだった。実際、この関係に傷つき、精神を病んだり、自殺した女性もいる。
サルトル自身も、政治的にはスターリンや毛沢東を礼賛し、「革命の熱狂」に身を投じたが、その代償を自分では一切引き受けていない。遠くの“正義”のために、近くの人間の痛みを無視した思想家の典型である。
思想に問われるべき責任
これらの思想家たちは、人間の内面を「構造」や「理性」で制御可能だと考えた。だが、それこそが傲慢だった。人間は単純ではない。矛盾し、迷い、裏切り、傷つき、愚かで、過去の過ちに煩悶し、善意と悪意のあいだを行き来する。
思想が人間の複雑さを受け止めず、「制度を変えればよくなる」「自由を与えれば善くなる」と信じるとき、その思想は**人間を型に押し込め始める。**そして型に合わない人間を“欠陥”として切り捨てるようになる。
そのとき、思想は希望ではなく、冷たい暴力装置へと変わる。
結びに──思想に倫理を取り戻すために
思想は必要だ。理論も必要だ。だがそれは、人間を傷つけないという保証を持っていない。だからこそ、思想には倫理が求められる。現実を生きる人間への想像力が求められる。
私たちは、マルクスやサルトルをただ否定するのではなく、その思想が現実に何をもたらしたのかを見つめ直し、思想と倫理のあいだにある緊張を直視するべきである。
思想に責任を問うとは、過去の知識人を裁くことではない。思想という営みが、これ以上人間を踏みにじらないように祈り、理性を最大限に働かせることなのだ。
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