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はじめに|80年後の私たちに、何が求められているのか
戦争の終結から、間もなく80年の歳月が過ぎようとしています。
当時を生きた世代はほとんどが鬼籍に入り、私たち日本人の多くは、戦争の記憶ではなく「戦後の努力」を背負って生きてきた世代です。
それにもかかわらず、いまだに国際政治の場では、80年前の不確かな事象が歴史カードとして外交や安全保障の場に持ち出されることがあります。ここで問題にすべきは、その国の“政権”や“政治戦略”です。
そんなとき、もうそろそろ日本人は…
「それ、もう80年前のことですよね? 数人の証人の証言だけで物的証拠が乏しい件ですよね。そうした事実関係はプロのニュートラルな歴史学者に任せましょう。
私たちの問題は、今と未来をどうするかですから。」
と、ノンシャランにさわやかに返答して良いだけの時間が流れたと思います。譬えてみれば、80年前のプロポーズを、おばあちゃんが言い出したか、オジイチャンが言い出したか、そういうレベルの論争なのかもしれません。
戦争責任と世代責任は違う
まず前提として確認したいのは、「今を生きる殆どの日本人に、大東亜戦争の戦争責任はない」という事実です。
7万人の民間人を殺害した原爆を投下したエノラ・ゲイの搭乗員の孫になんの責任もないように、ルーズベルトやトルーマンの子や孫が戦争責任がないように、現代の日本人が80年前の戦争の加害を背負う道理はありません。
80年前に起きた戦争の責任は、ニュートラルに科学的に学問的に歴史として検証されるべきであり、今日の外交政策の材料としてまともにとりあうような事柄ではありません。
歴史は感情ではなく、学問に任せるべきだ
戦争にまつわる歴史的出来事──たとえば南京事件のようなテーマも、今や外交カードとして使われてよい時代は、本当であれば過ぎています。
繰り返しますが、歴史は、記録と証拠、構造分析に基づいて科学的・学問的に扱われるべき分野です。
断片的な証言や政治的意図で一方的な断罪が下されるような状態は、民主主義や法治の原則とは相容れません。
その象徴ともいえるのが、極東国際軍事裁判における松井石根大将の処刑です。
彼は「南京事件」の責任を問われ、死刑に処されました。
しかしその根拠は、蒋介石政権による報告と、限られた外国人による証言、そして政治的空気の中での「象徴的断罪」でした。
何より重大なのは、中国が「南京大虐殺」と呼ぶ事件が本当に起きたと合理的に裏付けられるだけの、確たる物的証拠が存在しないという点です。
状況証拠と断片的証言だけで一人の人間に死刑を下す──それは、現代の法的基準から見れば明らかに誤った判断です。極東裁判の妥当性には、かねてより疑念が呈されてきました。しかし、いまだに東京裁判の結論が、いかにもフェアな法理念に従ったものであるという前提でいる人も見かけます。
極東裁判そのものを再検証すべき時代に、私たちはすでに入っているのではないでしょうか。それこそが、戦後80年という節目の本質的な意味だと私は思います。
朝鮮併合や中国との戦争をめぐる歴史観の複雑さ
たしかに日本は戦前、朝鮮を併合し、中国に軍を進めました。しかしそれは、欧米列強がアジアを植民地にしていた時代の、極めて複雑な国際構造の中で起きたことです。当時、日本周辺のアジアの国々は殆ど欧米列強の植民地でした。例外は日本とタイくらいでしょう。
日本だけが例外的に非難されるべきではなく、アジアの独立運動にとっては「欧米の支配を揺るがす転機」として機能した側面すらあります。
日本が戦争に敗れたからこそ、「加害」だけが語られ、「解放」や「民族自決」は無視されてきたのです。
戦後独立を果たしたアジア諸国の多くが、日本の進出を「歴史の転機」として回想している事実にも、私たちはもっと目を向けてよいはずです。
加えて、日本は大戦中に大変な暴力にさらされました。2つの原爆投下と東京大空襲です。これらで約30万人以上の民間人が、常識的センスにてらせば虐殺されましたし、ハーグ陸戦条約違反でもあります。そのため、戦後日本は世界最貧国のひとつとなりました。しかし日本人は自分達の被害者性に固執することなく、今と明日のために必死に働きました。
思考停止せず、自立した歴史観を持とう
「東京裁判史観」と呼ばれるような、戦勝国の正義だけを唯一の真実と見なす歴史観に、いつまでも日本の外交や教育が縛られる必要はありません。もう80年も前のことで、その時の人は殆ど生きていません。
歴史に誠実であるとは、反省し続けることではなく、歪曲に与しないことです。
そして、過去を冷静に受け止めつつ、現代の安全保障や経済、文化に責任を持って生きることこそ、未来の国際社会における日本の誠意だと、私は思います。
おわりに|軽やかに、知的に、未来へ
これからは、日本人が堂々と、ノンシャランにこう言える時代に入ったのだと思います。
「それ、もう80年前のことですよね?
事実関係は学者に任せましょう。
私たちは、今と未来を生きる責任がありますから。」
歴史を歴史として尊重するが、過去に溺れず未来に備える。
それが、戦後を生き抜いてきた日本人が、次世代に残せるもっとも誠実な姿勢ではないでしょうか。