理屈コネ太郎の孤独観|孤独と付き合う事で人は成長できる

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1.生来的な孤独とその忘却

人間は、生まれた瞬間から死ぬまで孤独である。
身体も意識も他者と完全に共有することはできず、誰も代わりに生きることも死ぬこともできない。
この意味で、孤独は「特別な状態」ではなく、人間の基本的な性質そのものだ。

ただし、人はこの事実を自覚しないまま成長する。
乳幼児期から家族という社会的関係に包まれ、他者との関わりを通して自己を形成するからである。
この時期の人間は、孤独を生きながら、孤独を感じずにいられる。
それが、人間の社会性という仕組みの働きでもある。


2.社会的関係性の悦び

成長するにつれ、人は他者と協力し、理解し合い、承認を得るようになる。
この関係性のなかで得られる「共感」や「所属」は、人間にとって大きな心理的安定をもたらす。
社会的関係は、孤独を完全に忘れさせるほど強力な環境である。

しかしその安心は、永続しない。
人間関係や社会的立場は変化し、やがて失われる。
この関係性の喪失を経験することで、人は初めて「孤独」という現実を意識するようになる。


3.孤独感の発生と誤認

壮年期以降、人は次第に「失う経験」の方が「得る経験」を上回るようになる。
親しい人の死、社会的役割の喪失、加齢による制約。
こうした出来事の中で、かつて無意識のうちに忘れていた生来的な孤独が再び浮かび上がる。

このとき多くの人は、孤独を「新しく発生した不幸」と誤認してしまう。
だが、正確にはそうではない。
孤独は初めからそこにあり、ただ社会的関係の悦びに長らく覆い隠されていただけである。

つまり、人は生来の孤独を忘れたまま壮年期まで生き、喪失を通じてその存在を思い出す。
この再浮上した孤独を、元々の孤独以上に苦しい「孤独感」として誤って認識してしまう。社会的関係性の悦びが大きかった人ほど、喪失によって可視化された孤独感の痛みは大きい。


4.孤独と付き合うということ

孤独は消すことも避けることもできないが、理解し、扱うことはできる。
孤独とは、人間の構造そのものであり、人生のどの段階にも等しく存在している。
社会的関係が豊かなときには見えず、喪失のときに顕在化する――ただそれだけのことである。

したがって、孤独を異常な状態として恐れる必要はない。
孤独を観察し、理解することができれば、孤独は苦痛や寂寥感の原因ではなく、
思考と自己認識のための環境になる。

孤独を避けるよりも、孤独とどう付き合うかを学ぶほうが人間本来の在り方に適っている。
孤独を理解することは、人間が自分の構造を理解することでもある。


5.まとめ

  • 人間は生まれながらに孤独である。

  • 社会的関係性の悦びの中でその孤独を忘れて何十年も生きる。

  • 壮年期以降、喪失の増加とともに孤独が再び意識される。

  • その孤独は新しい不幸ではなく、もとから我が身と重なり存在していた構造の再認識である。

  • 孤独を理解し、観察できる人間は、孤独に振り回されずに生きることができる。

孤独は人間の基本設定であり、そこから逃げることはできない。
だが、孤独を理解し、扱う力を持つことは誰にでもできる。
それが、理屈コネ太郎が考える「孤独と付き合う」ということの意味である。


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筆者紹介は理屈コネ太郎の知ったか自慢|35歳で医師となり定年後は趣味と学びに邁進中

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