Contents
はじめに:士農工商という通念に対して
士農工商に対する理屈コネ太郎の私見
ここでひとつ、私の私見を最初に述べておきたい。
士農工商という順番は、単なる道徳的評価や職業の尊卑ではなく、戦時体制における国家維持のための機能的優先順位だったのではないかと考えている。そしてそれが故、江戸時代末期の幕府のだらしなさにつながったのではなかろうか。
- 士は武力と統治を担う
- 農は兵站(食糧や材木の生産)を支える
- 工は武器や道具を作る
- 商は物資や情報を流通させるサービスの担い手
このように整理すれば、「士農工商」は平時の倫理秩序というより、戦略的国家運営の建前として整序された秩序モデルと捉えられるのではないか。
もちろんこれは私の見立てに過ぎないが、読み進めていただく中で、もしこの考え方に何かしらの納得や違和感を覚えていただけるなら、それもまたこのテーマの奥深さだと思う。
士農工商の今日的通念
「士農工商」という言葉は、日本人にとって馴染み深い。武士・農民・職人・商人を上下に並べた江戸時代の“身分制度”と理解されることが多い。
だが、果たしてこの理解は妥当だろうか?
この四つの語が並んでいるからといって、それが法的身分であり、固定的な上下秩序を示していたとみなすのは、やや単純すぎる。制度と思想、そして実態がどのように接続し、あるいは乖離していたのかを改めて眺め直してみたい。
士農工商の起源と思想的背景
四民思想の原点『礼記』
「士農工商」という区分は日本固有の発明ではなく、古代中国の儒教思想にその原型がある。とりわけ『礼記(らいき)』は、前漢時代(紀元前2世紀頃)に編纂されたとされる儒教経書のひとつで、社会秩序と礼制度について広く論じている。
この文献において、士・農・工・商の四者は、それぞれ異なる役割を担い、互いに補完しあって社会を支える存在として描かれていた。つまりこれは役割に基づく分業モデルであり、そこに明確な上下関係や序列の観念は確認されない。
宋代における朱子学とその再解釈
この四民思想は、宋代(960〜1279年)における儒教の体系化──すなわち「朱子学」として再編された。朱子学は、宋代の朱熹(しゅき)によって大成された新儒学で、従来の儒教に「理気」や「性と天道」などの形而上学的要素を加え、倫理と秩序の学問として再構築された思想体系である。
江戸幕府における士農工商の再構成
幕府的儒教としての朱子学導入
日本では、江戸幕府がこの朱子学を政治統治の正統性を支える思想として採用した。特に林羅山(1583–1657)に始まる幕府儒者たちは、朱子学を幕府の公式思想とし、「士農工商」という四民秩序を社会理念として整序した。
林羅山は、戦国の混乱を終息させたばかりの江戸時代初期に生きた人物であり、徳川家康・秀忠・家光・家綱の四代にわたって仕えた。再び下剋上と内乱の時代に戻らぬよう、武力ではなく道徳による統治が不可欠だと考えた人物だ。
彼は義・礼・忠を中核とする朱子学を「支配者=士(武士)」の理想像に重ね合わせ、これを新たな秩序形成の柱とした。
朱子学はこの時点で、輸入思想としてではなく、幕府に適合した新たな儒教──いわば”幕府的儒教”へと転化していった。
武士の名誉と戦略的秩序の意義
こうした秩序設計の背景には、当時の武士たちの処遇問題があったことも見逃せない。江戸幕府は、戦国のような軍事的混乱が再び起こらぬよう、武士を社会秩序の頂点に据えることで、彼らの名誉と地位を制度的に保証した。さらに、いざというときの再戦を視野に入れるならば、戦闘経験者たちをいつでも動員できる階層として保持しておく意味もあったはずである。
ここまでをまとめれば、士農工商という言葉はもともと『礼記』に由来し、江戸時代初期の統治思想として、戦国の再来を防ぐために構造的なヒエラルキーとして整序された概念だった。そして、その順番には、私の仮説ではあるが、戦時下における国家運営上の優先順位が反映されていたのではないかと考えている。
江戸社会における士農工商の実像
制度か理念か──制度と現実のゆらぎ
江戸時代の政策を見るかぎり、士農工商という枠組みは確かに制度的ヒエラルキーのように扱われていた面もある。士農分離政策、町割り、苗字帯刀の許否、衣服や所作の規定などに、明確な階層差が反映されている。
とはいえ、それを現代的な意味での「法的身分制度」と見るのはやや言い過ぎだろう。むしろそれは、秩序の理念と、社会の実際とのあいだにあった曖昧な運用領域の中で柔らかく機能していたと考えるほうが自然だと思える。
工と商の差と、日本的商道倫理
士農工商の中で、特に「工」と「商」が一括りにされがちだが、その扱いには大きな差がある。
「工」は技術職として社会に必要不可欠な存在であり、武器製造や土木建築を通じて幕府にも密接に関わっていた。これに対して「商」は、利を追う存在として、朱子学的道徳観の中では警戒と蔑視の対象になった。
だが日本における商行為は、本質的に“信義則”に基づいて営まれていた。虚偽や詐話によって一方的な利益を得る行為は詐欺として社会的に非難され、商行為とは明確に区別されていた。「商いは飽きない」「信用は財産」という言葉に象徴されるように、商人の営みは長期的関係と相互利益を前提とする価値ある行為だった。
よって、「商=不道徳」というイメージは、当時の支配秩序を支えるために支配者側が作り出した偏見の側面がある。
芸能・文化職という“枠外”の人々
歌舞伎役者、芸人、浮世絵師、講釈師など、江戸時代の庶民文化を担った人々は、士農工商のいずれにも明確に含まれていない。
形式上は町人に準じた扱いを受けつつ、制度的にはどこにも属さない“枠外の存在”として位置づけられていた。しかし、こうした人々が江戸文化の中心に位置し、しばしば大名や豪商の庇護を受けていた事実は、士農工商という概念が実態の複雑さを捉えきれない理想図に過ぎなかったことを示している。
終章:平和が秩序を空洞化させた
士農工商は『礼記』に由来する職能的秩序が、江戸時代初期に統治思想として再構成されたものである。その背後には、武士の名誉、戦時の即応体制、社会の安定という三つの合理性があった。
しかし、260年に及ぶ平和のなかでこの秩序は徐々に形骸化し、名誉を維持された武士たちは、実務能力や実戦経験を持たぬまま制度に守られる存在となり、やがて“ボンクラ化”していった。
- 武士の借財を肩代わりする蔵元
- 豪商が文化を育て、地方経済を事実上掌握する
- 芸人や戯作者が庶民の思想と風俗を動かす
こうした現象は、士農工商という図式が、現実社会の力関係とは一致していなかったことを如実に物語っている。
その結果として、幕末における幕府の対応力の欠如、財政の崩壊、国際対応の失策が連なり、江戸幕府は静かに崩壊していくことになる。
ここまで述べてきた内容は、私が提示するひとつの仮説にすぎない。士農工商というヒエラルキーは、当初戦時下の国家運営における合理的な構造でありながら、平和の長期化とともに機能を失い、幕府末期の制度疲労へと繋がっていった。
すべて士農工商に結び付けて考えた、理屈コネ太郎の私見であるが、読者の皆さんにも、この視点が歴史を見るひとつの補助線となれば幸いである。
他の記事へは下記をクリックすれば移動できます。
元医者による人生を見つめるエッセイ集
当サイト内記事のトピック一覧ページ 【最上位のページ】