キャッチ&リリースは残酷か?☆自然界の捕食と生存可能性から考える

はじめに

釣りは単なる娯楽でしょうか。それとも残酷な行為でしょうか。

中でも議論が尽きないのが、キャッチ&リリースです。

「食べない魚をわざわざ釣るなんて残酷だ」

「いや、捕まえた魚を殺さず、生きて還すのだから、命を残す釣りではないか」

どちらの感覚も理解できます。

ただ、この問題を考える前に、一つ確認しておきたいことがあります。

釣りは、自然の外側から人間が突然持ち込んだ行為ではありません。

人間も自然の中に生きる動物であり、太古から魚を捕らえてきました。釣りとは、人間と魚の間に長い歴史を通じて繰り返し発生してきた事象の一つです。

もちろん、人間も自然の一部だから釣りは無条件に正しい、という話ではありません。魚への負担が消えるわけでもありません。

しかし、人間だけを自然の外部に置き、釣りを「本来の自然へ後から持ち込まれた異物」と考えるのも、適切ではないでしょう。

本記事では、この座標軸からキャッチ&リリースについて考えてみます。

今回も、理屈コネ太郎の管見の範囲で考えた私見です。その旨をご理解のうえ、お読みください。

釣りは一大ジャンルであり、その在り方について多くの人が真剣に考えています。本稿が、そうした思索の一助になれば幸いです。


キャッチ&リリースは魚に無害ではない

リリースを前提とした釣りには、常に賛否があります。

「食べもしない魚を釣って苦しめるのは残酷だ」という批判は理解できます。

また、「命を奪うのであれば、食べることが釣った魚への供養になる」という考え方にも、一つの筋があります。

実際、魚は釣られる過程でストレスを受け、フックによって傷つき、ファイトによって消耗します。リリースすれば、釣られた事実がなかったことになるわけではありません。

キャッチ&リリースは、魚に何の負担も与えない行為ではないのです。

それでも、リリースには固有の意味があります。

それは、いったん捕らえた魚を殺さず、生存の可能性を残したまま元の環境へ還すことです。

新しいのは、釣りという出会いではありません。

太古から続く人間と魚の関係に、「捕まえても殺さない」という、それまでの基本的な関係にはなかった結末が加わったことです。


自然界の捕食では、捕獲されれば通常、死へ続く

自然界の捕食は、いつも成功するわけではありません。

魚が捕食者に追われても逃げ切ることはあります。捕食者が狙いを外したり、途中で追うのをやめたりすることもあるでしょう。

ここで分けて考えるべきなのは、捕食者に追われることと、実際に捕獲されることです。

追われても逃げ切れば、獲物は生き残ります。

しかし、獲物が捕食者に捕らえられ、食べられる状態まで制圧されれば、その先に待っているのは通常、死です。

自然界の捕食では、獲物が捕獲されることと、その獲物が死ぬことは、基本的に一続きの出来事です。

キャッチ&リリースが変えたのは、魚を追い、捕らえるという関係そのものではありません。

捕獲された魚が死へ向かう流れを、人間が途中で止めるという結末を加えたことです。


釣りは人間と魚の間に太古から続く事象

人間は古代から魚を釣り、食べ、ときには岸から遠く離れて回遊魚まで捕らえてきました。

世界各地の遺跡からは、石や骨、貝などを利用した古い釣針や漁具が出土しています。沖縄でも約2万3千年前の貝製釣針が発見されており、世界最古級の事例とされています。

ポリネシアや地中海沿岸などでも、古くから釣針や漁具が使われてきました。

人間と魚の関係は、それほど古いのです。

釣りは、近代になって突然始まった「人間による自然への新しい介入」ではありません。

人間も自然の中に生きる動物であり、その人間が魚を捕らえるという関係も、非常に長い時間をかけて繰り返されてきました。

魚の生存環境という観点から見れば、人間による捕獲もまた、太古から存在してきたリスクの一つです。

その意味で、釣りは自然の外から持ち込まれた異物ではありません。

人間を含む自然の中で、人間と魚の間に長く発生し続けてきた事象なのです。


新しいのは釣りではなく、その結末

では、キャッチ&リリースの何が新しいのでしょうか。

それは、出会いではなく結末です。

魚が疑似餌を捕食対象と判断して食いつき、フックが掛かり、ファイトの末に人間の手元まで寄せられる。

この段階まで進めば、魚は人間に捕らえられた状態にあります。

従来の人間と魚の関係では、その先にあるのは基本的に死でした。

魚を捕まえ、持ち帰り、食べる。

ところがキャッチ&リリースでは、人間がその流れを途中で変えます。

捕まえたのに殺さない。

捕らえた魚を、生きたまま元の水へ還す。

もちろん、魚自身がそれを「もう一度与えられた機会」と意味づけるわけではありません。

しかし、魚がその後も生きられる可能性が残ること自体は、人間が作った物語ではなく、現実に生じる違いです。

キャッチ&リリースとは、捕獲から死へと続いてきた人間と魚の関係に、捕獲後にも生存可能性を残すという新しい結末を加えたものなのです。


釣りの成立には魚の捕食判断が介在する

釣り、とりわけルアーフィッシングには、もう一つ興味深い特徴があります。

釣りという状況を作るのは人間です。人間が疑似餌を選び、フックを付け、水中へ投じます。

しかし、その疑似餌を追うか、食いつくか、無視するかは、魚の行動によって決まります。

ルアーを追ってきた魚が、最後の瞬間に反転する場面を、釣り人なら何度も見ているでしょう。

追っても口を使わない魚。

近づいてから見切る魚。

初めからまったく相手にしない魚。

実際には、釣られる魚よりも、疑似餌を無視したり見破ったりする魚の方が圧倒的に多いはずです。

もちろん魚は、「これは人間との対決だ」と理解しているわけではありません。人間が何を目的としてルアーを投げているのかも知りません。

したがって、魚が釣りに同意したとか、食いついた魚の自己責任だという話ではありません。釣りという状況を作った人間の責任が消えるわけでもありません。

それでも魚は、自分が得られる感覚情報をもとに、目の前のものを捕食対象として追うか、口にするかを判断しています。

人間が疑似餌を提示し、魚の捕食行動がそこに接続したとき、釣りが始まります。

つまり釣りは、人間が一方的に魚を拘束するところから始まるのではありません。

人間の仕掛けと魚の捕食判断が接続することによって成立する事象なのです。


人間の矛盾と、魚を釣りたい欲求

人間は矛盾を抱えた生き物です。

動物や魚を捕らえ、殺し、食べます。

その一方で、犬や猫をただ愛するために飼い、その命を大切にします。

「命を奪うこと」と「命を慈しむこと」が、同じ人間の中に共存しています。

ペットには生涯にわたる責任を負いながら、人間側の判断によって不妊手術や去勢手術を行うこともあります。

人間は命を慈しみながら、同時に人間の論理によって、ほかの生物の生き方へ介入します。

釣りについて「釣った魚は食べることこそ供養になる」と考えるのも、人間による意味づけでしょう。

少なくとも魚自身にとって、死後に人間へ食べられることが「供養」になるとは考えにくい。食べられて死ぬ場合も、食べられずに死ぬ場合も、魚の生命が終わることに変わりはありません。

だからといって、「食べることが供養になる」という考え方が悪いと言いたいのではありません。

人間は、自分たちなりの意味を与えながら、ほかの生物との関係を作ってきました。そうした矛盾や不条理を内包しているのが人間なのだと、私は考えています。

そして、「魚を釣りたい」という気持ちも、人間が長い歴史の中で持ち続けてきた欲求の一つでしょう。

狙った魚を見つけたい。

仕掛けを工夫したい。

魚の行動を読みたい。

掛けた魚とのやり取りを制したい。

釣りには、食料の獲得だけでは説明できない楽しさがあります。

もし「釣った魚は必ず食べなければならない」とすれば、合理的に食べられる数までしか釣ることはできません。

それも一つの倫理です。

しかし同時に、「釣ること自体を楽しみたい」という人間の欲求とは衝突します。


キャッチ&リリースは釣り文化の発展解

キャッチ&リリースは、この矛盾を消し去るものではありません。

魚を釣りたいという欲求を満たすために、魚へ負担を与えること自体は変わらないからです。

しかし、捕獲と死を必ずしも一続きにしないという、新しい選択を可能にします。

魚を釣りたい。

けれど、釣った魚をすべて殺す必要はない。

そこで、魚を捕らえるという行為は残しながら、その後に続いてきた死を回避し、生きたまま水へ還す。

これは、人間が自然の外側へ逃げる行為ではありません。

人間も自然の一員でありながら、自分が何をしているのかを考え、自らの行為の結末を変更できる動物だからこそ生まれた選択です。

もちろん、リリースすれば必ず魚が生き残るわけではありません。

フックによる損傷、ファイトによる疲労、空気への露出など、魚への負担は残ります。

したがって、「逃がすのだから、どのように扱ってもよい」という話にはなりません。

むしろリリースを選ぶからこそ、魚への負担をできるだけ減らす必要があります。

必要以上にファイトを長引かせない。

空気中へ出している時間を短くする。

魚体を乱暴に扱わない。

可能であれば水中でフックを外す。

魚種や水温、水深に応じた方法を選ぶ。

こうした知見が蓄積され、共有されるようになったことも、釣り文化の進歩でしょう。

キャッチ&リリースは、魚への負担を完全になくす解決策ではありません。

しかし、人間の釣りたいという欲求を残しながら、捕獲後の死亡をできるだけ減らし、魚に生存可能性を残そうとする釣り文化の発展解と見ることができます。


おわりに

キャッチ&リリースは、魚に何の負担も与えない行為ではありません。

釣られる魚はストレスを受け、傷つき、リリース後に死ぬ場合もあります。

そのため、「食べもしない魚を苦しめるのは残酷だ」と感じる人がいることも理解できます。

しかし私は、別の角度からも考えたいと思います。

釣りそのものは、人間が自然の外側から突然持ち込んだ特殊な行為ではありません。

人間と魚の間に、太古から続いてきた事象の一つです。

自然界の捕食は、いつも成功するわけではありません。獲物が逃げ切ることもあります。

しかし、獲物が実際に捕獲されれば、その先には通常、死が続きます。

人間と魚の関係でも、長いあいだ、魚を捕らえることは、その魚を殺して食べることにつながっていました。

キャッチ&リリースが変えたのは、そこです。

新しいのは釣りではありません。太古から続く人間と魚の関係に、「捕まえても殺さず、生きて還す」という結末が加わったことです。

「釣った魚は食べるべきだ」という考え方にも一理あります。

一方で、リリースという選択肢があるからこそ、人間は釣りたいという欲求を満たしながら、魚にもその後の生存可能性を残すことができます。

私はキャッチ&リリースを、「残酷か、残酷ではないか」という二択だけで評価する必要はないと思っています。

リリースは、残酷さを否定するための免罪符ではありません。

魚への負担を自覚したうえで、それでも捕獲の先に死以外の終わり方を作ろうとする選択です。

そう考えるならキャッチ&リリースとは、太古から続く人間と魚の関係の中に、人間が新しく加えた、生存可能性を残す発展的な結末なのではないでしょうか。


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筆者紹介は理屈コネ太郎の知ったか自慢|35歳で医師となり定年後は趣味と学びに邁進

作成者: 理屈コネ太郎

元消化器内視鏡医・産業医。現在は社会・人間行動・構造分析をテーマに執筆活動を行う。定年退職後はヨット・ボート・クルマなど趣味と構造研究の日々を過ごす。

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