グローバリズムという言葉の欺瞞

Contents

【第1章:似た言葉で誘導される誤解】

「グローバル化」と「グローバリズム」は似た語感を持ちながら、意味する内容はまったく異なる。

グローバル化とは、社会の要請や技術革新によって自然に進んでいく、経済や情報の地球規模での拡大を指す。インターネットや自由貿易などが代表例だ。

一方で、グローバリズムとは「すべての人類や社会は最終的にこうあるべきだ」という理念をもとに、政治・経済・文化を特定の方向へと導こうとする思想である。要するに、人類が究極的に進歩した先には、ひとつの最終的な社会がある…という幻想に基づく妙な正義感だ。

しかし、多くの知識人ですらこの二つを混同し、言葉の印象だけで理解したつもりになっている。あるいは、意図的に混同させられてきたとも言える。


【第2章:グローバリズムの思想的構造】

グローバリズムは、「人類が進歩した先の世界はひとつであるべきだ」、「あるいは人類が目指すべき究極の社会や文化はひとつ、なぜならそれは究極だから」とする規範的見解に立ち、自分たちの価値観こそが普遍であり正しいと信じている少数の意識高い系の人達の思想である。

これは、一部の政治的“意識高い系”による夢想的な理念にすぎず、実際には現実を無視した理想論であることが多い。

グローバリズムは「人類はこうあるべきだ」という独特の正義感に支えられているが、その情熱に反して、論理的根拠には乏しい。

また、「普遍性」「多様性」「寛容」などの聞こえの良い言葉を掲げながら、実際には「すべての社会はこうあるべきだ」という一元的価値の押し付けを伴っている。

究極の社会や文化はひとつだ…という思想そのものが多様性を認める寛容性が皆無である。


【第3章:共産主義思想との構造的類似】

グローバリズムは、ソ連出現前の共産主義思想と似た構造を持つ。「人類は最終的に〇〇であるべき」という理念を掲げ、人類の“完成形”を想定する点で共通している。

共通点:

  • 「歴史は進歩し続ける」という一方向的な歴史観(歴史テレオロジー)
  • その進歩の先で人類の究極形態に全ての文化はひとつに収斂する
  • 既存の多様な文化や制度を「遅れている」と断定し排除する姿勢

相違点:

  • 共産主義は国家権力による平等の強制
  • グローバリズムは複数の“意識高い系”がばらばらに語り合う歴史観の欠けた散漫な信仰共同体

【第4章:歴史的実績の不在】

理想主義に基づいた社会制度が、長期にわたって繁栄し、国民を幸福にした例は極めて少ない。

たとえば、ソ連、中国の文化大革命、ポル・ポト時代のカンボジア、ナチスによる千年王国構想など、いずれも“正義の理念”で構築されたが、結果として破綻した。誰かの正義を別の誰かに押し付ける事が原理的に不正義だからだろう。

こうした“理想による設計”は、歴史的現実や人間の本性から乖離しており、むしろ自由や人間性を抑圧する傾向を持つ。

結局は、「誰かの文化」「誰かの信念」が“全人類の正義”であるかのようにすり替えられているだけに過ぎない。


【第5章:「標準」という言葉の欺瞞】

「グローバルスタンダード」という言葉は、いかにも中立的で客観的な共通基準のように響く。しかし、実際には特定の文化や価値観が他国に押し付けられているケースが多い。

たとえば、英米流の企業統治モデルや、ESG(環境・社会・ガバナンス)重視の投資基準、ジェンダーや人権に関する定義などが、それに当たる。

それらを採用しない国や文化圏に対しては、「遅れている」「未開」「啓蒙が必要だ」といったラベルが貼られる。
これは思考停止的な優越主義にほかならず、文化的多様性に対する不寛容とさえ言える。

「標準」という言葉が持つ力は大きいが、その名を借りて他者の土壌に入り込み、価値観を上書きしようとする姿勢は、実に傲慢である。


【第6章:内面化された服従】

グローバリズムは、「人類の理想形」を目指すという前提に立っている。そのため、それに異を唱えること自体が「後進的」とされやすい。

「なぜ理想を拒むのか?」という空気が生まれれば、多くの人々は自発的にその“理想”に従おうとする。だがそれは本当に自分の意思だろうか?

教育、メディア、国際機関のなかで“グローバルな標準”が自明のものとして扱われ、子どもや若者の価値観に刷り込まれていく。

結果として、人々の思考の枠組みそのものが「グローバリズムは良いものだ」という前提で構成されてしまう。

自分の頭で考えているつもりでも、実は“思考のプリセット”を与えられている――この構造に自覚的であることが、自由の前提である。

民主主義・自由主義の国や、国の憲法より政党が上位に置かれる一党独裁国家、世襲制の独裁国家、そういう多様な統治形態が混在するこの地球上で、社会の在り方や文化に、グローバル(地球規模)なスタンダード(標準)が存在すると考えることは、もはや蒙昧と言ってよいだろう。

あるいはもし、社会における自身のポジション獲得のためにないと知りつつグローバルスタンダードという虚構の概念を発信しているとしたら、それは詐欺的行為と呼べるかもしれない。


【第7章:再確認すべき視点】

「グローバル」と名のつく思想や制度に触れるとき、私たちは常に問いを立てる必要がある。

  • 誰がその考えをスタンダードとしたのか?

  • それは本当に地球規模と呼べる程の多くの文化や社会で妥当するのか?

  • それを拒否する自由は、制度的にも文化的にも担保されているのか?

これらの問いを常に内面に携えることが、「よく練られた服従」から抜け出し、主体的に世界を見るための第一歩になる。

グローバリズムが標榜する“善”に惑わされず、その構造と動機を冷静に見つめることは、とても良いアタマの体操になるだろう。


【第8章:国連の発信する“グローバル正義”の傲慢】

国連は、しばしば「中立的な国際調整者」として語られるが、近年では「国連の一部の人達が採用する世界にとって正しい価値観」を一方的に語る装置と化している。

国連はSDGs、ESG、人権、ジェンダーなどに関する勧告を、頼まれもしないのに「世界共通の正義」として殆どエビデンスなしで発信しており、各国での制度化を求めている。

なかでも象徴的だったのが、日本の皇位継承に対する国連委員会の勧告である。
「男系男子に限る皇位継承は女性差別でグローバルスタンダードに反する」とするその主張は、日本における皇統の歴史的・文化的な重層性を完全に無視したものであり、自分達の方が日本国民よりも思想的に上位であるという前提とした極めて傲慢かつ浅薄な干渉である。

本記事では触れないが、皇統はジェンダー平等の枠組みで語れる制度ではない。それは2600年以上にわたって続く象徴的秩序であり、日本という国の成り立ちの根幹をなす概念であり仕組みだ。

このように、なんか良さげな言説をグローバルスタンダードという虚偽に包んで、各国固有の制度や精神文化を破壊する力を持ち得るのが、国連のような巨大国際機関である。

もしこうした組織が“意識高い系”の理想に染められたとき、皇統・宗教・教育・法制度といった文明の柱が、世界中で同時多発的に脅かされることになる。

歴史の深みと豊かさを持った文化が、雑多な理念を寄せ集めた“人類最終形態”によって上書きされる――それが、グローバリズムの最大の危険性である。


他の記事へは下記から移動できます。
元医者による人生を見つめるエッセイ集
当サイト内記事のトピック一覧ページ 【最上位のページ】

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です