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はじめに|「好き嫌い」すら許されない空気
現代社会では、「多様性を尊重しよう」「差別を許してはならない」という価値観に基づく言説が広く流布している。
これは人権意識の進展として望ましい傾向である一方で、ある微妙な線引きが見えにくくなっている。
それは、個人の内面的な「好き嫌い」と、社会的に問題視される「差別」との違いだ。
「この人の態度は苦手だ」「この価値観や文化には共感できない」という自然な感情が、「それは差別です」と糾弾される。
そうした状況が、静かにしかし確実に広がっている。
感情は誰にも制御できない
人には好みがある。誰かを好きになったり、苦手に感じたりするのは、生理的な反応も含め、ごく自然な人間の性質だ。
それは、食べ物や音楽だけでなく、人に対しても同じように生じる。
話し方が合わない
態度に不快感がある
価値観や文化に違和感がある
こうした内面的な「好き嫌い」は、本人にとって理由のある、あるいは理由のない自然な反応であり、それ自体は倫理的にも法的にも何ら問題はない。
差別とは「行為」であり「構造」である
一方、「差別」とは、明確に他者を不利益に扱う行為であり、制度や構造として現れることもある。
職場での昇進を阻む
採用段階で落とす
発言を封じる
制度や仕組みを使って排除する
これらは、内心の「好き嫌い」を社会的に実行に移したときに初めて問題となるものであり、内面の感情そのものとは本質的に異なる。
境界が曖昧になると、何が起きるのか
ところが現在では、この「好き嫌い」と「差別」の線引きが曖昧になりつつある。たとえば、
ある人を「話が合わない」と思っただけで「排他的」と言われる
宗教的慣習に戸惑いを感じたことで「無理解だ」と非難される
特定の言動に距離を置こうとしただけで「排除」と断定される
これらはすべて、本来自由であるべき内心の感情や態度が、「差別だ」と誤認され、抑圧されている例である。
問題は、「糾弾の構造」にある
「差別を許すな」という正義感が、しばしば内面の自由への介入として現れる。
その典型が、「その表現は差別的だ」「その言い方は偏見だ」という言説だ。
こうした糾弾は、差別を防止するどころか、
対話を断ち切る
感情の抑圧を強いる
自己検閲を社会に強要する
という別種の暴力になりかねない。
多様性とは「不快を許容する」ことである
本当の意味での多様性とは、自分にとって不快な存在や価値観が、あって当然だと受け入れることである。
好きにならなくていい。
理解しなくてもいい。
ただ、存在を否定しないこと、攻撃しないこと──それが多様性の根幹だ。
「嫌っていい、でも攻撃はするな」は十分か?
道徳的には、「嫌うことは自由だが、攻撃してはいけない」という命題は一見正しく思える。
しかし、それが成立するのは、相手が静的な存在であるときに限られる。
たとえば、
誰かが自分の違和感を「差別だ」と非難し、
社会や集団のルールを変えようと動き出し、
それに異論を唱えると「差別者」「無理解」と糾弾される
というように、相手が積極的に現状を変更しようとしている場合には、
単に黙っていることが「受容」「容認」と見なされてしまい、内面の自由はますます脅かされていく。
終わりに|正義の名を借りた圧力に抗するために
私たちは、差別を許してはならない。
だが同時に、「差別」という言葉が安易に使われることで、個人の内心の自由が損なわれる社会もまた、望ましくない。
好き嫌いは、人間の自然な営みであり、人格の一部である。
その感情が、声高な「正義」の前に封殺されるならば、社会はやがて多様性の仮面をかぶった同調圧力の温床となるだろう。
本当に守るべきは、表現の自由ではなく、感じることの自由である。
そしてそれは、正義とされる側にも、立ち止まる想像力を求めるものである。