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はじめに|新規の新田造成は実は江戸時代が最後
筆者が調べた限りでは、現在の日本において新規に水田を造成することは基本的に許されていない。また、完全に新規の新田が造成された最後の事例は、なんと江戸時代にまでさかのぼるという。
既存の水田を整備したり整理したりする事例はあっても、それまでコメ作に用いられていなかった土地を新たに水田に変えることは原則として認められておらず、最後にそのようなことが行われたのは江戸時代だったというのは驚きである。
本記事では、現在得られている考古学的知見を筆者なりに咀嚼して紹介しつつ、現代のコメ作農家が進むことも退くこともできない苦しい状況に追い込まれている制度的背景を解説し、コメ作農業を労働集約型産業から技術集約型産業へと転換していく可能性について模索していく。
以下は、あくまで筆者の管見による独断と偏見を多分に含んだ私見であることをご承知のうえ、読み進めていただきたい。
第1章|稲作は集団が運んだ技術:文明としての移住型稲作
稲作は、日本列島で自然発生的に生まれた農業技術ではない。その起源は、中国の長江中流〜下流域や山東半島の温暖湿潤な土地にあるとされている。紀元前数千年の長きにわたり、そこで培われた水田稲作の技術は、やがて舟を使って海を越え、朝鮮半島を経て日本列島に到達した。
朝鮮半島にも稲作は伝わったが、水田稲作が本格的に根づくことはなかった。朝鮮半島は地形的に山がちで、冬には厳しい寒さが訪れる。稲作に必要な温暖な気候と安定した水資源という観点から見ると、朝鮮半島の多くの地域は水田稲作に不向きだったのである。
また水田を維持するには、まず水を張ることができるだけの水平な地面を造成し、さらに重力を利用して水を引き入れたり排出したりするための高度な土木技術が不可欠である。これは単なる「畦(あぜ)作り」のような作業ではなく、村全体あるいは地域全体が協力して取り組むべき社会的大事業であり、それには社会秩序と分業体制の存在が前提とし不可欠である。日本にはその前提が存在した。
それが稲作が日本に導入されてから急速に展開した理由のひとつである。近畿地方や九州北部では、すでに縄文時代後期から村落構造が形成されており、狩猟や漁撈を共同で行い、季節的な作業に協力して取り組む慣習があった。
さらに、弥生時代の初期から確認される水田遺構、たとえば福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡、などには整備された水田区画、用水路・排水溝(溝渠)、堤、倉庫跡などが同時に発見されており、これらは単に“種苗と技術”が伝わったというだけではなく、それを取り扱うための制度・規律・技術知を持った職能集団が、集団ごと日本に渡来していたことを強く示唆している。
こうして日本列島で開花した稲作は、やがて朝鮮半島に逆輸入された。
つまり、日本における稲作の始まりは、偶然の種子の伝播ではなく、文明の移植というべき現象だったのである。
第2章|現代のコメ作農家:制度に縛られた現代の稲作
現代のコメ作農家は、発展・継承も撤退も困難な状況に閉じ込められている。
コメ作農家の平均年齢は70歳近く、75歳以上の従事者も珍しくない。それでも彼らが田んぼを手放さないのは、「新しい担い手が現れないから自分が続けるしかない」「先祖伝来の田んぼを自分の代で荒らすわけにはいかない」といった悲壮な責任感によるものである。
なぜ、新しい担い手が現れないのか。それは農家個々のビジネススキルの問題ではなく、新しい担い手の登場を許さない法と構造にあると理屈コネ太郎は考えている。
後継者も農業に興味を持つビジネスマインドある新規参入者も登場しない
現状のコメ作農業は、所得が高いとは言い難い状況である。そのため後継者が自然に現れるとは考えにくい。もっと稼ぎの良い職業は他に多数あるのだろう。
一方で、現代の技術を活用して農業を再設計しようと考える企業は、少数ながら確かに存在している。
しかし、そうした潜在的な次世代のプレイヤーたちは、昭和期に制定された法律や制度の壁に阻まれ、門前払いされてきた。
農地法による取得制限、農業法人認定の非資本主義的要件、地域の慣習や農業委員会の“空気”、いずれもが農地解放後の家内制手工業的農作業を前提としており、「新しい人が入ってくること」を制度的にも精神的にも想定していない。
やる気がある人が新規参入できない。
やり切ったはずの高齢者が引退できない。
こうしてコメ作農業は、制度的にも人的にも“にっちもさっちもいかない”状態に陥っている。
■ 土地を欲しい人が買えない:農地法の制限(農地法第3条)
農地は原則として「耕す本人」しか取得できない(農地法第3条)。これは戦後の農地改革の理念を今なお引きずっており、都市在住の意欲ある起業家やビジネスマインドを持った個人が農地を取得することは極めて困難である。
GHQのウォルター・アダムスらが提唱した「自分で耕さない者に土地は与えない」という理念は、当時としては合理的であった。しかし、現代においては「土地を持つ者は耕し続けなければならない」という呪縛として作用している。
■ 株式会社の参入を妨げる“非資本主義的ルール”(農地法第2条・第3条の2)
株式会社でも農業への参入は可能だが、農地を取得・借用するには、農地法上の農業法人としての認定を受ける必要がある(第2条・第3条の2)。その認定要件には、「主たる事業が農業であること」や「役員の過半数が農業に常時従事していること」といった時代錯誤的な条件が含まれている。
考えてみてほしい。役員の過半数が工場で作業しているような製造業が、果たして効率的で利益の出る経営を行えるだろうか。役員と作業員は分業し、それぞれが自らの役割に専念するからこそ、全体として高効率な経営が成立するのである。
現状の制度は、経営・労働・資本が分離可能であるという株式会社本来の特徴、すなわち「分業」や「技術・資本の集約」によって事業効率を高めていくという資本主義的経営の思想と本質的に矛盾している。
結果として、農業をビジネスとして再設計しようとする株式会社型の参入は、制度の段階で躓いてしまう構造にある。
これだけ勤勉な日本人の中で、何万とあるコメ作農家のなかから、野心的な数名がコメ作ビジネスを技術集約型の事業へと変革することに成功する時間はあったはずである。しかし、日本の農政は、その可能性をことごとく摘んできたのである。
■ 技術革新の活用が阻まれている(制度不適応)
今日では、ドローン、GPSトラクター、センシングによる水管理などの技術によって、稲作は比較的低コストで技術集約型産業へと移行できる段階にある。
しかし、法や制度が現代の技術水準を前提としていないため、農業内の分業体制は育たず、依然としてすべてを家内制手工業的に個人農家が担っている。
もちろん、信義則を欠くかも知れない外部者の新規参入には最大限の警戒が必要だが、それと同時に有能な外部人材も排除されているという現実がある。
さらに言えば、日本産のコメは国際市場において確かに高額であり、大量消費される商品としては競争力に欠ける。しかし、それを逆手にとった「高品質ニッチ製品」としてのブランディングは十分に可能である。
事実、フランスワインはニッチな製品でありながら、年ごとの作柄までもがブランド価値に昇華され、一大ジャンルとして世界的なビジネスモデルとなっている。
あらゆる分野で高品質なものづくりの信頼性を築いた現代の日本なら、国内で消費しきれない余剰米であっても、巧みにブランド化すれば、世界中の富裕層に喜ばれて購入される可能性がある。
減反政策をやめて増産に舵を切り、国内においてはコメの生産者価格と消費者価格の差額を政府が個別補償することで自給率を高める。そして余剰米は、日の丸の意匠をあしらった箱に詰め、「Grown in Japan」または「Produced in Japan」として世界に販売する。そのような戦略を本気で検討すべき段階に来ている。
このような産業設計を阻んできたのもまた、制度の更新を怠ってきた戦後農政のツケである。
稲作制度年表(要点整理)
年代 | 制度・政策の内容 | 農家の状況・心理 |
---|---|---|
1946年 | 農地改革:地主制を廃止、「耕す者に土地を」 | 小作人から自作農へ。土地を得て誇りと責任が芽生える |
1952年 | 農地法施行:「農地は耕作者が保有するもの」という原則確立 | 外部参入は困難に。農業=家業として固定され始める |
1961年 | 農業基本法:「多角経営・経営合理化」を掲げる | 家族経営の延命方針。兼業農家の拡大が容認される |
1970年 | 減反政策開始:「米は余っている。作るな」 | 作っても売れない/補助金をもらう方が合理的な状態になる |
1999年 | 新「食料・農業・農村基本法」:担い手育成へ方針転換 | 若手や企業に期待は向けられるが、制度は依然“参入障壁だらけ” |
2001年 | 株式会社の農業参入解禁(ただし農地取得には要件あり) | 「参入OK」のはずが、農地法の壁で実質不可能なケース多数 |
2014年 | 農地中間管理機構(農地バンク)設立 | 土地の貸し出しを促す仕組みがようやく整いはじめる |
2018年 | 減反政策の事実上終了 | 「自由に作れる」ことになるが、価格保障も消滅。不安定化 |
現在 | 農地取得要件・法人要件の見直しは検討段階 | 新しい担い手は育ちにくく、年寄りだけが“やめられない”状態 |
第3章|生まれない田んぼ:水田造成は江戸時代で終わっていた
日本における水田の開発は、実は江戸時代を最後に事実上止まっている。幕藩体制の下で広く行われた新田開発(○○新田、干拓事業、用水路の整備など)は、江戸中期〜後期にピークを迎えた。
明治以降、農業政策の中心は「地租改革」「改良」「灌漑整備」へと移行し、新規水田造成は次第に行われなくなった。
昭和に入ると、むしろ「余剰米対策」として水田を減らす方向に政策がシフトする。1970年以降の減反政策は、新たな水田開発を事実上封じるものであり、その後、誰も「新しい田んぼができる」現場を見ることはなくなった。
米どころで有名な土地の人ですら、新しい田んぼが出来るのを見た人はまずいない。見た事はあるのは田んぼが耕作放棄され、雑草で荒れたり駐車場になったりする事だけだ。
終章|文明としての稲作を、誰が次代に手渡すのか
稲作は、種と道具だけでは成立しない。水利、土木、共同体、作業工程、保存、販売まで含めた「社会技術体系」であり、現代の技術と知見があれば本来は分業を前提とした“技術集約型産業”になれる可能性を持っている。
だがその変革の芽は、旧来の制度によって摘み取られてきた。農業法人化を妨げる農地法、外部人材の参入を阻む慣習、そして撤退も継承も難しい構造。やる気がある者ほど門前払いされ、今残っている高齢農家だけが“やめる自由すら奪われた状態”で耐えている。
文明は、一定のタイミングでプレイヤーは交代しなければならない。
それができない社会に継続できない。
完全新規水田造成がゼロで、次世代プレイヤーが登場しにくい日本の稲作は、今まさに“交代不能な文明の危機”にある。
守るべきはコメ作りという産業であり、そこに関わる人達を家内制手工業的な作業に閉じ込めるのではなく、やりたい人が自由に責任を持って参入して、後継ぎな継承者が次々の生まれる仕組み作りが本当は必要なのだと思う。