ホンモノの自信とは?|信頼されてこそ育つ“静かな確信”

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序章:「自信を持て」という言葉は人を惑わせる

「もっと自信を持て」とは、よく遭遇する言説である。
けれど、この言葉ほど誤解を生みやすいものもないと、私は感じている。
この表現は多くの人に“自信”を、気合いや自己暗示と混同させてしまう。
「自分ならできる」「やればできる」と心に言い聞かせ、気持ちを鼓舞することが、自信だと思わせてしまうのだ。

しかし、理屈コネ太郎の考えでは、その自信は自己暗示であり、本当の自信ではない。
それは「強気の演出」であり、「不安の裏返し」である。
自己暗示の効果を否定するつもりはないが、
こうした“自己暗示的な自信”は、現実との距離を広げ、しばしば周囲を傷つけ、最終的には自身の信頼を棄損する結果を招くことがあるのだ。


第1章:安易に持てる自己暗示的な「自信」は要注意

自信とは、不思議なものである。
なぜなら、本人がそう思えば、その瞬間から持ててしまうからだ。
根拠がなくても、「自分はすごい」「自分はやれる」と思うだけで、
それらしい“自信のカタチ”を装うことができる。

けれど、私の目には、“自信もどき”と呼ぶべき心理に見える。
この種の自信は、根拠を持たないがゆえに、検証不能な物語に頼る傾向がある。
たとえば──

「オレ、三歳のときにはリンゴの皮をむいてたんすよ」

と言う人物に出会ったとしましょう。

3歳でリンゴの皮をむく子どもはかなり優秀で天才的と呼んでよい子です。
だから、この人物は自分の素の優秀さを伝えるためにこの発言をしたのだと解釈できるのですが、問題は、この言葉を聞いた人の心象でしょう。

もしこの発言の主が、たとえば世界的なピアニストやバイオリニスト、あるいは高名な宮大工だったりすれば、聞いた人は「ああ、なるほどねえ」と感じ入るでしょう。
しかしもし、この発言の主が平均的な人物である場合、人々はどう受け取るでしょう。なにも感じない人もいるでしょうが、少し鋭い人ならば「なぜその才能に見合った立場に今この人は立っていないのか」と感じるはずです。

つまり、その人の立場と聞く人によっては、当該発言は結果的に自己の没落を暴露する言葉になってしまうのです。
「昔は金持ちだった」「若い頃はモテた」──これらの言葉やかつての武勇伝がどこか痛々しく響くのは、そのためでしょう。
こうした“聞く側の”機微”を過小評価してはなりません。


第2章:本物の自信は「他者からの信頼」が根拠

理屈コネ太郎はこう考えています。
本物の自信とは、他者の信頼や高評価を受けとめた結果として、自然に醸成される精神状態です。
自信とはそれ自体が“力”ではなく、“力が周囲に認められた結果として心に生まれる安定的な心理”です。
つまり、自信は「自分で作るもの」ではなく、「他者との関係の中で育つもの」なのです。

他者から信頼を得るには、それに足るだけの中身が必要です。
つまり、優れた言動です。
それは次の三つの条件を満たすものだと思います。

1️⃣ 人並み以上の広い知識や知見を持っていること。
2️⃣ 素人では届かない専門領域を持っていること。
3️⃣ そしてこの2つを、比較的容易に客観的に証明できること。

この3つが備わって初めて、他者から信頼と高評価を得ることができる。
そして、その信頼を受けとめるとき、本人の中に静かな確信が育つ。
その確信こそが、本物の自信なのではないでしょうか。
この要件を踏まずに“自信”を表明するのは、根のない木が「私は大木です」と言っているようなものです。


第3章:「自信もどき」が有害な理由

自己暗示的な自信は、短期的には自分を支えることもあります。
試験や試合の直前に「できる」と思い込むのは、
緊張を和らげる心理的ドーピングとして一理あります。

しかし、それが常態化すると有害です。
私の見立てでは、その理由は三つあります。

現実を検証しなくなる。
 自信もどきは「自分を疑わない」ことを前提にしているため、学びが止まる。

批判を敵視する。
 他者の意見が“自分を否定する攻撃”に見え、耳を塞いでしまう。

過去の自慢話に逃げる。
 現在を証明できないため、昔の逸話で自分を支えるしかなくなる。

こうした状態は、本人だけでなく周囲にも悪影響を及ぼします。
根拠のない自信は、誇大広告と同じです。
「すごそう」に見せかけ、内実は大幅に期待を下回り、結果を伴わない。
さらに本人も、何度も自信もどきで自分を鼓舞し続けた結果、
いつしか自分を過剰評価することが“普通”になり、
必要な努力や真摯さを見失うようになる。
その果てに、社会的信用を失うことになるのです。


第4章:信頼される人の静かな「自信」

理屈コネ太郎の観察では、本物の自信を持つ人ほど、自分から自信の有無について多くを語りません。
彼らの姿勢や言葉の端々から、自然に確信がにじむのです。
なぜなら、他者の信頼がすでに彼らの中に定着しているからです。
その信頼こそが、精神の安定を支えています。

この意味で、自信とは“今”の自分を裏づける他者の評価に根ざした心理的現象だと思います。
「昔はこうだった」と語らずとも、今の姿が雄弁に語ってくれる。
だから、過去を補強に使う人ほど、自信を欠いている。
逆に、静かに結果を積み上げている人ほど、声を大にせずとも説得力を持つ。
私はそういう人にこそ、本物の自信を感じます。


結章:むき出しの自信は誇大広告

最後に、理屈コネ太郎の私見をまとめます。

自信とは、他者から信頼される知識・技能・精神性が伴って、初めて“力になりうる”精神状態である。
知識や技能、精神性のいずれかが欠けたただの剥き身の自信もどきは、
自らを誇張して見せるだけの誇大広告のようなものであり、
しばしば本人にも周囲にも害を及ぼす。

“自信もどき”は、強がりや偽ポジティブと同じ構造を持っています。
根拠を欠いた前向きさは、結局のところ現実逃避の一形態にすぎません。
だから私は、「自信を持て」よりも先に、
「信頼される自分をつくれ」と伝えたいのです。

自信は、自分の中で作り出すものではありません。
他者との関わりの中で、静かに育つものだと、私は思います。
そして、そのような自信だけが、人を成長させ、周囲を安心させる。
それが、私なりに考える“本物の自信”のかたちです。


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筆者紹介は『理屈コネ太郎|35歳で医者になり定年後は趣味と学びに邁進中』です

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