釣りという詐欺強盗――共感の閾値と感受性の倫理

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序章:釣りという詐欺強盗

釣りという行為を考えていると、ふと詐欺強盗という言葉を思い浮かべることがある。
魚の立場に立てば、目の前のルアーは食糧に見える。
それを信じて口にした瞬間、身体を拘束され、自由を奪われる――。
欺きと暴力が一体となった構造、それが詐欺強盗だ。
釣りもまた、そうした理不尽の構造を内に抱えているように見える。

それでも、私たちは釣りを犯罪とは感じない。
それは、ヒトと魚とのあいだに倫理的な対称性が成立していないからだろう。
魚は言葉を持たず、痛みを訴える手段もない。
その沈黙の中で、人は「これは残酷かもしれないが、自然の摂理でもある」と、
自らを静かに納得させている。
私自身も、釣り糸を握るたびに、この微妙な心の揺れを感じる。


第1章:共感の閾値――感じ取る力の差異

魚の苦しみをどの程度まで想像できるか。
それは人によってまったく違う。
まったく気にならない人もいれば、釣り針を外すとき胸が詰まる人もいる。
この違いを生むのが、共感の閾値なのだと思う。

他者の痛みに反応する感受性の境界線。
この閾値は固定されたものではなく、
年齢や経験、心の状態によって日々わずかに揺れ動く
昨日は平気だった行為が、今日はなぜか気にかかる――
その小さな変化こそが、感受性としての倫理のはじまりなのかもしれない。


第2章:思想としての倫理と、感受性としての倫理

釣りをめぐる議論を見ていると、
「釣りは残酷か」「自然の遊戯か」といった、思想としての倫理ばかりが先に立つ。
釣りをしたあとに自分が何を感じたか、
魚の目を見て心がどう動いたかという感受性としての倫理について語られることは少ないように思う。

思想としての倫理は理念であり、感受性としての倫理は身体の反応だ。
前者は言葉で説明できるが、後者は説明の前に身体が震える。
人はしばしば、感じることの不都合さから逃げるために、
思想の側へ避難してしまう。
私自身もその誘惑を感じる。
理屈を掲げる方が、感じてしまうより楽だからだ。


第3章:暴力と共感のあいだで

釣りは残虐だとアングラーを否定するのも、少し思想的すぎる気がする。
かといって、魚の立場をまったく想像しないのも、
一本の糸で奇跡的に出会った者同士としては冷淡に思える。

釣りという詐欺強盗には、欺きと暴力の二重構造がある。
魚を誘うとき、釣り人は“食糧”を装って彼らをだます。
その瞬間、人は捕食者であると同時に、倫理を試される存在でもある。
釣りとは、暴力と共感のあいだで揺れ続ける、人間的な行為なのだと思う。


第4章:感受性の揺れが生む倫理

結局のところ、釣りをどう感じるかは個人の共感の閾値次第だろう。
その位置は、人生のなかで少しずつ変化していく。
ある人は魚を「命」として見つめ、
別の人は「自然の恵み」として受け取る。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、その感じ方が、その人の生の輪郭をつくるのだと思う。

むしろ大切なのは、自分の感受性がいまどこにあるのかを自覚することではないか。
その揺れを恥じる必要はないと思う。私などは日々揺らいでいる。
「捕らえたい」と「殺したくない」という二つの思いを抱えながら、
人はその都度、自分の中の倫理を探している。
それが、生きて考えるということの実際なのだろう。


終章:釣りは倫理の鏡

倫理とは、語るものではなく、どこで痛みを感じるかによって立ち上がる。
釣りは、その閾値を静かに映し出す鏡のような存在だと感じている。
そこに映るのは魚の苦しみだけでなく、
それを前にした自分の感受性の輪郭でもある。

釣り糸を垂らすたび、私は思う。
「いまの自分は、どこまで感じ取れるのだろう」と。
その問いがある限り、人はまだ、
感じる生き物としての人間でいられるのかもしれない。


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