日常的な行為であっても、
向き合い方や考え方に、ほんの少し違う角度が加わったとき、
心の中に、それまでにはなかった心地よさが立ち上がることがある。
こうした心地よさは、
特別な出来事や劇的な変化の中で生まれるとは限らない。
すでに知っている行為や言葉を、
どのように扱っているのか。
その「手つき」を少し見直しただけで、
感触が変わってしまうことがある。
Contents
名前のない料理の話
既存の素材、既存の器具。
特別に珍しいものは何も使っていない。
けれど、調理の手順や火の入れ方を変えたとき、
それまでとは異なる質感の味が、ふっと立ち上がることがある。
素材も器具も同じ。
でも調理法が違うとこれまでとは別の、
新しい美味しさが生まれる。
その料理は、いま生まれたばかりだから、まだ名前がない。
しかし確かに美味しい。
名前がないから先入観ぬきに、
「新しい美味しさだ」と
食べた人の中で、心地よさが立ち上がってしまう。
「炊く」と「煮る」を分かったつもりになる危うさ
「炊く」と「煮る」を使い分ける人は多い。
けれど、その違いを
物理現象として説明できる人は、
実はそれほど多くない。
火を入れる以前の下ごしらえなのか、
水の量なのか、
それとも、言葉が違うだけなのか。
こう考え始めたとき、
「分かったつもり」だったものが、
少し揺らぎ始める。
ここで大切なのは、
正解を出すことではない。
どこを見て、
何を区別し、
どの順で考えているのか。
その観察点の精度が、
それまでより少しだけ高くなることだ。
私が言いたいのは、
炊くか煮るかの定義ではなく、
「知っているつもり」をほどいていく手順の話である。
心の中にも、同じことが起きる
こうしたことは、料理に限った話ではない。
既知の日常的な行為の中で、
向き合い方や評価の軸がほんの少し変わっただけなのに、
心の中に、これまでにはなかった感情が立ち上がることがある。
それは、高揚でも達成感でもない。
ましてや、説明しきれる感情でもない。
ただ、
「あ、そういうことかもしれない」
という、静かな感触が残る。
私がここで扱いたいのは、
こうして人の心の中に立ち上がる、
名もない、しかし確かに存在する、
豊かで素晴らしい感情だ。
それは意図的に起こせる
こうした立ち上がりは、
誰にでも、簡単に起きるわけではない。
既知の行為において、
そこに新しい心地よさを立ち上げるには、
特別な才能と、非常に精度の高い仕事が必要になる。
観察点を曖昧にせず、
区別を誤らず、
手順の誤差を極小に保つ。
その積み重ねがなければ、
同じ種類の感情は再現されない。
こんまりは何を発見し、何を創作したのか
この構造を、
片付けという極めて日常的で、
しかも世界中の人が関わる領域で、
高い再現性をもって成立させた例がある。
近藤麻理恵の仕事だ。
彼女が発見したのは、
片付けという行為の中で、
人の心に新しく立ち上がる
心地よさという現象だった。
そして彼女が創作したのは、
その心地よさを、
高い確率で再現させるための方法論だった。
それを、
片付けというボリュームの大きな領域を背景に、
世界規模で成立させた。
ここに、偶然が入り込む余地はほとんどない。
「ときめく」という言葉について
「ときめく」という言葉は、
彼女の発見や仕事を世界に運ぶうえで、
非常に優れた役割を果たした。
だが、
その言葉があったから現象が起きたのではない。
彼女の発想や方法を
世界規模に展開するために、
その心地よさに名前が必要だったのだ。
だから、「ときめき」は新規性の本体ではない。
しかし、拡散のためには決定的に必要だった。
なぜ、こんまりはワールドクラスに到達できたのか
特別な才能を持つ人が、
既知の行為に、
非常に精度の高い角度を導入した結果、
多数の人の心に、
再現可能な心地よさを生んだ。
対象が日常的であったこと。
再現の母数が圧倒的に大きかったこと。
そして何より、
方法論の誤差を極端に小さく保てたこと。
それらが重なって、
あの規模に到達した。
正直に言えば
この業績の構造を、
言語として正確に書き切るのは、かなり難しい。
実際、ここまで書いてきても、
まだ十分に書けているとは思っていない。
だが、
こんまりはそれをやり抜いた。
いまのところ、
「凄い」以上に正確な言葉が、
私には見当たらない。
