エレガンスは、必ずしも分かりやすい場所にあるとは限りません。
むしろ、「そんなところに?」と思うような意外な場所に、ひっそりと潜んでいることが多い。
多くの場合、私たちは
エレガンスやラグジュアリーという言葉を、
高級な商品や、特別な場所、非日常的な体験と結びつけて考えがちです。
高級ホテル。
リゾート。
上質なレストラン。
それらを否定するつもりは、まったくありません。
よく設計された空間には、それ自体が備えているエレガンスがあり、
そこに身を置くことで、心の中にラグジュアリーが立ち上がることも確かにあります。
ただし、それが唯一の道だとは、私は考えていません。
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エレガンスは「商品」ではなく「構造」に宿る
ここで言うエレガンスとは、
価格やブランド力を指す言葉ではありません。
エレガンスとは、
・物事がどのように組み立てられているか
・無理なく、破綻せず、秩序が保たれているか
・余計なノイズが排され、必要なものが適切な位置にあるか
そうした構造の整い方を指す言葉だと、私は捉えています。
たとえば、少年漫画という感情過多になりやすい形式の中で、
物語の前提更新や段階の移行が丁寧に管理され、
感情に流されず構造が保たれている作品に触れたとき、
私たちはそこに意外なエレガンスを感じることがあります。
それは、派手な演出ではなく、
破綻しやすい場所で、破綻しない構造が保たれていることへの感応です。
同じことは、日常の中にも起きています。
ラグジュアリーは、心の中に立ち上がる
ラグジュアリーは、
外部から「与えられるもの」ではありません。
エレガンスな構造に対して、
自分が十分な見識と余裕をもって向き合えたとき、
その認知の結果として、
心の中に立ち上がる感覚——
それが、私の言うラグジュアリーです。
同じ空間にいても、
同じ行為をしていても、
心地よさが立ち上がる人と、そうでない人がいる。
その違いは、
対象の価値そのものではなく、
それを受け止める側の状態にあります。
日常生活という、もっとも過酷な現場
考えてみれば、
日常生活はエレガンスが最も失われやすい場所です。
忙しさ。
効率。
惰性。
「急いで済ませる」ことが常態化し、
構造は簡略化され、
気づかぬうちに雑味が積み重なっていく。
だからこそ、
この日常の現場で、
それでもなお秩序や手順、空間の整いを保とうとする行為そのものが、
すでにエレガンスになります。
庶民的な入浴施設でありながら、
清潔さや秩序、大空間の体験を崩さずに維持し続けてきた銭湯文化に、
私たちがラグジュアリーを感じてしまうのも、
豪華だからではなく、
日常インフラという過酷な条件の中で構造が守られてきたからでしょう。
日常生活には、エレガンスが散見される
視点を少し変えてみると、
日常生活の中には、
エレガンスが意外なほど散見されていることに気づきます。
整えられた動線。
無駄の少ない手順。
静かに保たれた秩序。
それらにふと意識が向いた瞬間、
心の中に、名のない心地よさが立ち上がることがある。
それは高揚でも、達成感でもありません。
ただ静かで、しかし確かな感触です。
ラグジュアリーもまた、
特別に高額な商品や、遠くのリゾートに行かなくても、
日常生活の中で、
心地よさを心に立ち上がらせる機会は、実はそれなりに用意されています。
高級ホテルやリゾートを否定しない
もう一度、はっきり書いておきます。
高級ホテルも、リゾートも、否定しません。
それらが持つエレガンスも、
そこで立ち上がるラグジュアリーも、確かに存在します。
ただ、それらは
ラグジュアリーを感じるための唯一の条件ではない。
日々の生活の現場に、
エレガンスを見つけ、
ラグジュアリーを心に立ち上がらせることは、十分に可能です。
しかもそれは、
何かを新たに購入しなくても、
遠くへ出かけなくても、
今日から始めることができる。
心に立ち上がる心地よさを堪能する
年齢を重ねると、
若い頃と同じやり方で楽しむことが、
だんだん難しくなる場面も出てきます。
けれど一方で、
構造を見る目や、
感覚の解像度は、むしろ高まっていく。
だからこそ、
日常の中にあるエレガンスに気づき、
そこから立ち上がるラグジュアリーを味わうという生き方は、
シニアライフと、とても相性が良いように思います。
派手さはなくてもいい。
自慢する必要もない。
心の中に立ち上がる、
あの静かな心地よさを、
きちんと堪能できれば、それで十分です。
その積み重ねが、
日々を痩せさせず、
人生を静かに豊かにしてくれる。
そう信じて、
今日もまた、日常の現場に目を向けてみたいと思います。
