臨床医なら必ず出会う齟齬と苦悩 ― 医学以外に医師が引き受けるもの

診療の場で社会的な齟齬を引き受け、疲労した表情を見せる臨床医と家族
病気の診断だけでなく、言語化されない家族の不安や判断の分断を引き受ける臨床医の現実

Contents

臨床医は、社会的な齟齬と向き合わされる

臨床医が向き合っているのは、病気そのものだけではありません。
診療の現場には、家族関係や責任の分散、想像力の欠落といった、社会的に構成された齟齬が、患者とともに持ち込まれます。

それは例外的な出来事ではありません。
むしろ、ほぼすべての診療行為に、大なり小なり混入しているものです。

そして、その齟齬は誰かの悪意によって生じるものではありません。
多くの場合、それぞれの立場の人が、悪意なく、ほんの少しずつ「考えること」や「想像すること」を手放した結果として生まれます。

本稿で描きたいのは、
そうした齟齬が最終的にどこで処理されているのか
そしてその処理を引き受け続けることが、臨床医にどのような負荷を与えているのか、という現実です。

これは制度論でも、医療批判でもありません。
臨床という場で、実際に起きていることの話です。


診療は「言語化された問題」を入口として始まる

診療行為は、言葉から始まります。
いわゆる問診です。

「今日はどうしましたか?」

この問いかけに対する患者や家族の言葉が、診療の入口になります。

問診とは、患者や家族が感じている違和感を言葉にしてもらい、それを医師が医学的な言語へ翻訳していく過程です。
ここで重要なのは、言葉の上手さや整理度ではありません。

必要なのは、
誰が、どの立場で、何を心配しているのか
が分かることです。

逆に、

「念のため」
「知り合いに勧められたから」

といった、主語を失った受診理由では、翻訳ができません。
問題が曖昧なのではなく、問題の所在が分からないのです。

なお、この点については医師側にも説明不足がありました。
医師が問診で何を求めているのか、社会に十分伝えられてきたとは言えません。

その結果、

「医師は5W1Hを求める」
「うまく説明できないと怒られる」

といった誤解が、いつの間にか定着してしまいました。


医師は「見れば分かる」わけではない

世間には、次のような思い込みが広く存在します。

医師は患者を見れば診断できる。

しかし実際には、

診察の起点として言語化された患者側の問題の核心が必要です。

診療とは、
視診・触診・検査だけで完結するものではなく、
患者や家族から提示された情報をもとに、思考を積み上げていく行為です。

医師が適切な判断を行うためには、

  • 何が起きたと感じたのか

  • それを誰が感じたのか

  • いつからか

  • なぜ受診に至ったのか

といった情報が必要です。

これは協力や善意の問題ではありません。
診療が成立するための前提条件です。

ところがこの前提は、医師側と患者側とで共有されていないことが少なくありません。


社会的齟齬の一例:三世代家族の受診

実際に私が経験し、強い徒労感を覚えた例を紹介します。

ある日、三世代で暮らす家庭の90代の祖母が外来を受診しました。
付き添いは、息子の嫁と孫です。

話を聞くと、長男である息子が、

「母の様子が変だから病院に連れて行ってほしい」

と嫁に頼み、嫁はパートを休んで義母を連れてきたとのことでした。

息子本人は仕事で同行しておらず、
「何がどう変だと感じたのか」についての説明はありません。

嫁も孫も、息子がなぜ受診を決断したのかを知りません。

本人に、

「何か体調が悪いですか」

と尋ねると、

「いつだって元気だあ!」

と、笑顔で答えます。

問診と視診の範囲では、本人は年齢相応に元気で、明らかな異常所見は見当たりませんでした。
この状態の本人を見て、受診の必要性を見出すこと自体が難しい状況でした。

登場人物は多いのに、誰も問題を自分の言葉として語っていない。
これが、この受診の最大の特徴でした。


判断と行動が分断された結果、残された負担

付き添ってきた嫁は、終始どこか居心地の悪そうな様子でした。
声を荒げることはありませんが、返答は短く、

「私、分からないです」

という言葉が繰り返されます。

彼女は、夫に頼まれて行動しただけです。
判断はしていないにもかかわらず、説明責任だけを引き受ける立場に置かれています。

その結果、

  • 本来得られたはずの収入を失い

  • 自分の仕事が軽く扱われたように感じ

  • それでも感謝される立場ではなく

  • 診察後には「医者は何て言っていた?」と説明を求められる

という状況に置かれます。

本人は終始ご機嫌で、孫も一緒にいる。
自分だけが損をしているように感じても、その感情を向ける先がない。

その居心地の悪さが、彼女の態度ににじんでいたように、私には見えました。


医師が引き受けているのは、判断ではなく「未処理の問題」

この場面で不足していたのは、医学的な判断ではありません。
不足していたのは、受診を決断させた現象の言語化でした。

もし息子が、

「急に食事量が減った」
「会話が噛み合わなくなった」
「転びそうになったのを見た」
「知り合いが大腸がんで亡くなり、急に心配になった」

といった短い日常語でもよいので、不安のきっかけを言葉にしていたら、医学的に踏み込めた可能性はあります。

しかし実際には、

  • 判断は息子

  • 行動は嫁

  • 本人は元気

  • 孫は同行者

という役割の分断が起きており、
判断を励起した現象が、誰の言葉としても医師に届いていませんでした。

臨床医が引き受けているのは、判断そのものではありません。
誰の言葉か分からないまま置かれた問題を、その場で生成し直す負荷なのです。


詰問調になる医師の側の事情

診察室で、医師が詰問調に質問してしまうことがあります。
それは患者や家族を責めているからではありません。

医師は、眼前の患者だけでなく、
待合室で待っている、まだ診ていない患者の最悪ケースを、同時に頭の中で想定しています。

できるだけ早く鑑別診断の入口を掴み、
危険な可能性を除外したい。

その焦りが、言葉遣いに表れてしまうのです。


診療の出口で起きていること

この診察で行われたのは、
息子が本来感じていた「何かおかしい」という問題への医学的判断ではありません。

行われたのは、

  • 緊急事態の有無の確認

  • その場を収束させるための説明

でした。

息子の問題提起は、定義されないまま先送りされています。

患者本人は、終始この問題の外側にいました。
診察内容を自分の問題として理解していたとは言い難く、
むしろ、嫁や孫と一緒に外出し、人と話したこと自体が楽しかったのかもしれません。

一方、付き添った嫁は、

  • 時間

  • 収入機会

  • 精神的負担

といった多くの負担を確実に引き受けています。

それでも診察後、

「異常なしだった」
「よかったね」

という言葉が家族内を流れれば、
手間や負担に見合う成果を得たように感じてしまう。

実際には、
本来の目的は何も果たされていないにもかかわらず。


齟齬は、ほぼすべての診療に存在する

このような齟齬は、特別な例ではありません。
程度の差こそあれ、ほぼすべての診療行為に存在します。

この齟齬への配慮を欠き、
医師側の視点だけから医療論理で診療を進めると、
患者側から思わぬ怒りや反発が生じることがあります。

場合によっては、訴訟に至ることもあります。

医師は、
齟齬の構造を俯瞰しようとする認知的な負荷を、もともと背負っています。

そこに、
訴訟リスクという現実的な緊張が加わる。

この負荷は、決して小さくありません。

それにもかかわらず、
患者側は自分たちが本来の目的を果たしていないことに気づけないまま、
「うまくいった受診」と認識して帰っていくことが少なくありません。

この現実を、
毎日、何度も経験する。

それは、確実に心を削っていきます。


これから医療に関わる人たちへ

この文章は、
医療を志す高校生、
臨床に出る前後の医学生や若い医師、
そして、子どもを医師にしたいと考えている親御さんに向けて書いています。

臨床医になるということは、
医学知識を使う仕事である以前に、

社会の中で言語化されなかった問題を引き受け、
その場を壊さずに収め続ける役割

を担うということです。

それは教科書にはほとんど書かれていません。
しかし、臨床の現場では、確実に存在しています。

それを知ったうえで、
それでも臨床に進む人がいる。

その覚悟を持った人が現場に立つことは、
医療にとっても、社会にとっても、
間違いなく価値のあることだと、私は思います。


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