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はじめに
本記事では、女性の家庭内役務の対価性が市場価値によって語られるようになった一方で、男性の稼得の家庭への提供がほとんど議論の対象になってこなかった点に注目し、家庭内役務をめぐる議論の前提と評価手法の一貫性について整理する。
男女のあるべき役割分担を提示することや、特定の立場を糾弾することが目的ではない。
問題にしたいのは、同じ家庭内役務を論じながら、なぜ評価の物差しが使い分けられてきたのか、という点である。
多くの家庭は、問題意識を前提に成り立ってはいない
これまで、そして現在においても、多くの夫婦や家族は、役割分担に大筋で納得・同意しながら生活してきた。
その形は家庭ごとに異なり、必ずしも理想的ではないが、日常生活が破綻しているわけでもない。
本記事は、こうした現実の家庭の在り方を否定するものではない。
家庭内役務の配分そのものを問題視するのではなく、それをどう評価し、どう説明してきたかという議論の枠組みを点検する試みである。
家庭内役務の対価性をめぐる三つの論点
家庭内役務の対価性をめぐる議論には、少なくとも次の三つの論点が含まれている。
第一に、女性の家庭内役務の対価性とは何か。
第二に、男性の稼得の家庭への提供の対価とは何か。
第三に、後者がほとんど議論の対象になってこなかったという非対称性である。
これらを同じ平面に並べて考えることが、本記事の出発点となる。
女性の家庭内役務は、どのように市場価値で語られてきたか
家事、育児、介護といった家庭内役務については、長らく無償性や不可視性が問題とされてきた。
その結果、これらの役務を市場に出した場合の時給や外注コストによって価値を示す、いわば市場価値評価の考え方が広く用いられるようになった。
この文脈における対価性とは、家庭内役務を市場的労働と同型のものとして捉え、代替可能性によって価値を測ろうとする発想である。
議論の是非はさておき、家庭内役務を市場価値で評価するという視点が、すでに社会的に受け入れられている点は確認しておく必要がある。
男性の稼得の家庭への提供は、どのように扱われてきたか
一方で、男性が社会で稼得し、その所得を家庭に提供する行為については、その対価が明示的に定義されることはほとんどなかった。
多くの場合、それは「家庭のための責任」や「当然の役割」として理解され、評価の対象になること自体が少なかった。
暗黙に想定されてきた対価があるとすれば、それは金銭ではなく、家庭の安定、帰属、役割の承認といった関係的価値であろう。
重要なのは、この行為が価値を持たないと考えられてきたのではなく、市場価値による評価の枠外に置かれてきたという点である。
家庭内役務の対価性をめぐる矛盾の構造
女性の家庭内役務は市場価値で評価される一方で、男性の稼得の家庭への提供は評価の対象にならない。
この状況には、いくつかの異なる次元の矛盾が存在する。
第一に、対価定義の矛盾である。
同じ家庭内役務を論じながら、一方では対価を金銭的価値として定義し、他方では非金銭的価値として処理している。
第二に、評価手法の矛盾である。
女性の役務は労働として可算的に評価されるが、男性の稼得提供は関係性の問題として扱われ、労働評価の枠に入らない。
第三に、可視化の非対称性である。
女性の役務は不可視であることが問題とされ、可視化や数値化が求められる一方、男性の稼得提供は可視化の要否すら検討されない。
これらはいずれも、善悪の問題ではなく、議論の前提と手法が一貫していないことに由来する矛盾である。
市場価値で一本化すると、何が見えてくるか
価値規範を脇に置き、家庭内役務を市場価値で一本化して考えると、構図は比較的明瞭になる。
家庭内役務をすべて外注した場合、一定の市場コストが必要になる。
女性が家庭内で役務を担うことは、そのコストの一部を自給によって削減していることを意味する。
一方、男性の稼得は、その残余の役務を市場から調達するための購買力を提供している。
この視点に立てば、男性の稼得の家庭への提供を市場価値で評価するとは、どれだけの家庭内役務を外注可能かという代替可能性の問題として捉えることに他ならない。
対価を関係的価値で一本化するという考え方
逆に、男性の稼得の家庭への提供の対価を、家族の安定や帰属といった関係的価値と捉えるのであれば、女性の家庭内役務の対価も同様に家族の価値であると考えてよい。
この場合、家庭内役務を市場価値に還元する必然性は弱まり、男女双方が家族という価値を共同で生み出しているという理解に収束する。
重要なのは、どちらのモデルを採用するかではない。
どちらを採用するにしても、同じ前提と同じ手法を適用すべきだという点である。
稼得提供者も家庭内役務を担うことで、価値創出は増幅する
家庭を価値創出の場として捉えるならば、稼得を主に担う立場の人が家庭内役務も一定程度負担することは、家庭の価値創出をさらに高める方向に働く。
市場価値モデルで考えれば、それは外注すべき役務コストを追加的に削減することを意味する。
関係的価値モデルで考えても、当事者間の信頼や安定を高め、家族としての価値を増幅させる。
ここで重要なのは、家庭内役務の分担が固定された義務ではなく、家庭の価値創出を調整するための可変要素であるという点である。
敬意が失われると、家庭内にフリーライダーが生まれる
家庭を価値創出の場として成立させるためには、当事者同士の間に、相互の貢献に対する最低限の敬意が必要である。
稼得による貢献も、家庭内役務による貢献も、どちらか一方が「当たり前」として扱われた瞬間に、価値創出のバランスは崩れやすくなる。
相手の貢献を当然視し、自らの負担を最小化しようとする立場が固定化すると、家庭内には事実上のフリーライダーが生まれる。
これは道徳的な非難ではなく、協働システムにおける構造的な問題である。
家庭が長期にわたって価値を生み続けてきた背景には、こうしたフリーライドを抑制する暗黙の相互承認が存在していたと考えられる。
貢献の当然視は、家庭の価値創出にとって有害である
「男は外で稼ぐのが当たり前」「女性はケア労働に優れているのが当たり前」といった貢献の当然視は、家庭内の協働関係を固定化し、相互承認を失わせる点で、家庭の価値創出にとって極めて有害である。
役割が当然視された瞬間に、それは価値として認識されなくなり、調整や最適化の余地も失われる。
結果として、家庭は状況変化に適応できない硬直したシステムへと近づく。
家庭は価値を生む場である
対価の非対称性を是正し、評価の枠組みを一本化すると、結論は驚くほど安定する。
市場価値モデルであれ、関係的価値モデルであれ、家庭は価値を生み出す場として説明される。
家庭が価値を創出する機能を持つからこそ、人は家庭を維持し、家庭を壊す行為を慎重に避けてきた。
家庭が価値を生まなければ、家庭は維持されず、やがて誰からも省みられなくなるだろう。
その意味で、家庭は「良いものだ」と言える。
それは道徳的な称揚ではなく、価値創出という事実から導かれる評価である。
おわりに
本記事が示したかったのは、家庭内役務のどちらが正しいかという結論ではない。
問題にしたかったのは、家庭内役務を評価する際の前提と手法が一貫していたかどうかである。
同じ対象を論じるなら、同じ物差しを用いる。
その基本的な整理を行ったとき、家庭は価値を生む場として自然に立ち上がってくる。
家庭を価値創出モデルとして捉えることは、家庭を冷たく扱うことではない。
むしろ、家庭がなぜ長く維持され、なぜ多くの人が家庭を大切にしてきたのかを、感情論に頼らず説明するためのモデルである。
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