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序章:人類が釣りをする本質的理由
釣りは、狩猟や採集と比べて効率が高いとは言いにくい行為です。大抵は釣果が少なく、ときにはまったく成果がないことさえある。
それでも人類は太古から釣りを続けてきました。
なぜでしょうか。
私はその理由を、**「釣りは低リスクで高リターンを期待できる疑似・打出の小槌だから」**と考えています。
通常は釣果が乏しいですが、たまに大物がかかれば一気に豊かな糧となる。そんな偶然性に惹かれて、人類は釣りを続けてきたのではないでしょうか。
第1章 古代人も釣りをしていた ― 考古学が示す証拠
考古学は「古代人も釣りをしていた」ことを明確に示しています。
東ティモールでは約4万2千年前の貝製釣り針が見つかっています。
沖縄・サキタリ洞遺跡からは約2万3千年前の釣り針。
北欧の中石器時代の遺跡からは網や釣具の痕跡。
日本列島の縄文時代には、貝塚から魚骨が大量に出土し、網おもりの遺物も確認されています。
こうした証拠から、古代人が水辺で釣りをしていたのは疑いない事実だと考えられます。
第2章 古代人の食糧戦略と釣りの位置づけ
地球上のほとんどの地域の古代人にとって、食糧の基盤は狩猟や採集でした。その合間に、釣りは副次的な蛋白源を得る手段として用いられたのではないでしょうか。
釣りの特長は「低リスクで誰でもできる」点にあります。簡単な竿や糸、針さえあれば個人で試せ、始める心理的ハードルや資金はそれほど大きくなかったはずです。
ただし成果は安定せず、その意味で効率のよい方法とは言いにくい。
釣りは大抵、釣果がほとんどありませんが、たまに爆釣することがある。
この「たまに爆釣」が古代人を釣りへと駆り立てた理由だったのではないでしょうか。狩猟や採集の合間に「少しでも余分な蛋白源を得られるかもしれない」という期待が、人々に竿を水辺へ向けさせたのでは…と理屈コネ太郎は考えています。
さらに、干物・燻製・塩蔵・発酵といった保存加工の発達によって、釣りで得られる成果は一層利用価値を持ったのだろうと思います。
第3章 投網・竿釣り・大規模網漁 ― 効率と社会制度の違い
3-1 大資本と組織化された労働力を要する網漁(地引網・定置網)
地引網や定置網は、大人数と舟を必要とする大規模漁法でした。一度に大量捕獲できる効率性があったため、その成果は資本や労働力を持つ層に独占され、網元制度と結びついたと推測されます。
3-2 小資本・個人で可能な竿釣り
一方、竿釣りは竹竿・糸・針といった簡易な道具で誰でも始められるものでした。釣果は不安定で効率は低いですが、水産資源への負荷も少なく、また網元たちの水揚量に与える影響も軽微であったため、一般庶民に開放されやすかったのでしょう。やがて釣りは「遊び」として文化的に発展したのも自然な流れかもしれません。
3-3 投網という例外的存在
投網は特異な位置にあります。小資本で個人でも扱えるのに、一度で数十匹を捕獲できることもある。釣りと同じ程度に低リスク低コストでありながら、成果(漁獲量)は圧倒的に高い。
重要なのは、投網の登場は釣り針とそれほど遅れなかったという事実です。
ヨーロッパ・チェコのパヴロフ遺跡(約2万6千年前)では粘土に押された網目模様が発見され、網の存在が示唆されています。
デンマークの中石器時代遺跡(約9千年前)からは植物繊維で編まれた網そのものが出土しています。
つまり、釣り針の発明と同時期に、すでに人類は網を編む技術を持っていたと考えられます。
では、なぜ古代人は投網という効率的な方法を持ちながら、なお「釣り」をしたのでしょうか。
その答えの一つは、投網には乱獲リスクと社会的制御が伴ったからではないかと思います。個人で手軽にできる一方で成果が大きすぎるため、共同体や権力によって制限されやすかった。
一方で釣りは効率が低いがゆえに、個人が自由に行える「余地」が残された。つまり釣りは、制御されることなく手を出せる副次的手段として選ばれ続けたのではないでしょうか。
第4章 釣りを支配する「運」
釣りの成果を左右するのは、環境・腕・道具だけではありません。そのすべてを整えても、最後に残るのは言語化できない「運」という要素だと私は思います。
人は絶対に釣れないと分かる場所では竿を出しません。「釣れるかもしれない」という最低限の期待が必要で、ときには「今日は必ず釣れるはずだ」という根拠のない思い込みにとらわれることもあるでしょう。
絶対に負けないと信じて賭けてしまうギャンブルのような心理が、釣りには潜んでいるのかもしれません。
この「運としか呼べない何か」に対して「今日は勝てる気がする」的な自信が、人類にとって釣りを魅力的にしているのではないでしょうか。
第5章 効率の悪さとギャンブル的心理
前章で述べたように、釣りは運に強く左右される点でギャンブルとよく似ています。
過剰な期待が行動を起こさせること
成果が偶然に依存していること
この二点は確かに共通しています。
ただし決定的に違うのは、釣りには胴元がいないこと。そして「負け続けても失うのは時間や労力など、許容範囲に収まるもの」であることです。
そう考えると、釣りは低コストで自然に挑む行為だったのかもしれませんね。
第6章 原始的な釣り具でも釣れる ― 釣りの普遍性
考古学の証拠からも、古代人が釣りをしていたのは間違いありません。そしてその釣り具は、骨や貝を削っただけの、現代の視点から見れば非常に原始的なものでした。
それでも魚がいれば釣れたのでしょう。そうでなければ、数千年にわたり釣りが続けられることはなかったはずです。
つまり、釣果を左右する決定的因子は、おそらく道具の性能ではなかったのではないでしょうか。
この事実は、釣りが太古から現代まで人類に残り続けた理由を物語っているように思います。「釣れるときは、どんなに原始的な道具でも釣れる」──古代人はそのことを経験を通して知っていたのかもしれません。
終章:釣りの本質は疑似・打出の小槌である
釣りは漁獲方法として効率が良い行為とは言いにくいのは既述した通り。
しかし 「低リスク低コストで誰でも始められて、たまに爆釣する」 という性質が、古代から人類を惹きつけてきた釣りの本質なのではないかと私は考えています。
古代人にとって釣りは副次的な食糧獲得手段、現代人にとっては偶然を楽しむ文化的遊び。
その根底にある共通点は「竿を出せば、もしかすると爆釣するかも」という期待です。時に訪れる爆釣の記憶が、人々に釣りを続けさせる大きな動機となってきたのではないでしょうか。
だから釣りは、今も昔も、人類にとって“疑似・打出の小槌”であり続けている──少なくとも私はそう思っています。