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■ 教養とは「物知り」ではない
「教養」という言葉は、時に“たくさんの知識”という意味に使われます。しかし本来、教養とは思考の骨格であり、何が正しく、何が間違っているのかを判断する“座標軸”です。
そして、その骨格を形作るうえで不可欠なのが歴史観です。
なぜなら歴史観とは、「なぜ今があるのか」「どのように社会は変わってきたのか」を問い直すための視座であり、あらゆる思考の“時間軸上の土台”だからです。
■ しかし、歴史観は“歴史エンタメ”では育たない
多くの人は、歴史小説や大河ドラマ、アニメ、漫画などを通じて歴史に親しんでいます。これは入口としては素晴らしい。ですが、それを教養の核=歴史観と呼んでしまってはなりません。
その理由は明快です。――歴史エンタメは、虚構だからです。
■ 英雄化と演出によって歪められる「歴史の骨格」
● 坂本龍馬は明治維新の“主人公”ではない
たとえば『竜馬がゆく』で描かれる坂本龍馬は、維新を導いた中心人物のように語られます。彼の人脈、行動、発言、理念が、時代を変えたかのように。
けれど史料的には、龍馬の行動は断片的にしか確認されず、維新政府の編成にも直接的な影響は見当たりません。にもかかわらず、司馬遼太郎が創造した『龍馬がゆく』世界の中の坂本龍馬というフィクションがあまりに魅力的なため、人々の中で“歴史の真実”かのような居場所を持ってしまいました。
● 水戸黄門は諸国を旅してなどいない
テレビ時代劇で知られる「水戸黄門」こと水戸光圀が、全国を旅して悪人を懲らしめて歩いたという話も、完全なフィクションです。彼が実際に行ったのは、大日本史という巨大な史書の編纂であり、地方に大きな負担を強いた中央集権的な政治行動でした。
つまり、「正義の老人」として描かれる彼の姿は、安心と娯楽を与える演出であって、現実の水戸光圀とはむしろ正反対の人物でした。
● 『ベルサイユのばら』に革命の本質は見当たらない
『ベルサイユのばら』で描かれるマリー・アントワネットとオスカルの葛藤は、感情を大いに動かします。しかし、実際のフランス革命は、王政という体制を根本から覆し、その反動でナポレオンという専制を生み出し、さらに血と混乱を経て共和制を確立するまでに長い時間を要しました。
オスカルもアンドレも、そこには存在しません。しかし、作品としての『ベルサイユのばら』があまりに素晴らし過ぎて読者の“歴史観”にすら介入してきます。
■ 歴史観を鍛えるとは、「構造」と「視座」を獲得すること
歴史観とは、年表を暗記することでも、偉人の名言を知ることでもありません。ましてや、正義の味方と悪の支配者の構図をなぞることでもありません。
本来、歴史を学ぶとは、**「構造を見る訓練」であり、「異なる視座に立つ試み」**なのです。
たとえば幕末を見るとき、幕府側からの視点、農民や町人からの視点、長州や薩摩の内情、海外列強の思惑といった複層的な要因を踏まえない限り、「倒幕=正義」という単線的な理解になってしまいます。
歴史観とは、時代の構造と人間の葛藤を重ねて考え続ける力のこと。フィクションでは省略されがちなこのプロセスが、実は一番重要なのです。そして常に歴史観は更新され続けるものなのです。
■ 歴史エンタメを入り口に、だが鵜呑みにせず
誤解しないでください。歴史小説やドラマを楽しむことが悪いのではありません。私たちは物語によって想像力を刺激され、興味を持ち、学びを始めるのです。
大切なのは、その**「感情のきっかけ」を、思考の出発点にすること**。
「この人物の行動は、実際にはどうだったのか?」
「この事件の背後にあった構造は?」
「この時代の人々は、何に縛られ、何を選ばなければならなかったのか?」
こうした問いかけこそが、歴史観を形づくっていきます。
■ 教養とは“思考の骨格”である
合理性は、思考の「筋肉」です。論理を組み立て、矛盾を排除し、最適な解を導くための力です。
しかしその筋肉がどこへ向かうべきかを決めるには、骨格=教養が必要です。
その骨格を構成する柱の一つが、歴史観です。
歴史観のない合理性は、目先の成功や短期的な正しさにしか奉仕できません。
逆に、歴史観だけで筋肉がなければ、理想を語るだけで現実に踏み出せません。
■ おわりに|「歴史観」は、思考を支える沈黙の軸
あなたが何かを判断しようとするとき。
選ぶ、語る、動かす――その瞬間の背後には、必ず“思考の骨格”が存在します。
その骨格を形成するために、ただ「面白い話」ではなく、「何がなぜ起きたのか」という問いに向き合う姿勢が必要です。
歴史観とは、過去に学び、現在を疑い、未来に備える知性の形式です。
それは大声で語られることは少ないかもしれません。けれど沈黙のうちに、思考の軸として私たちを支え続けるものです。
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