SATCにおけるサマンサ・ジョーンズ|慈愛と自由と責任と受容と矜持

SATCにおけるサマンサ・ジョーンズ
SATCにおけるサマンサ・ジョーンズ

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はじめに|サマンサ・ジョーンズとは何者か

『Sex And The City』に登場する4人の女性の中でも、最も自由で自立した存在として際立っているのがサマンサ・ジョーンズです。PR業界で成功し、自らの会社を経営。恋愛やセックスを自らの意思で楽しみ、何ものにも縛られないその生き方は、今見ても刺激的です。

出自・教育歴・年齢差の推察

サマンサの出身地は劇中で明確にはされていませんが、会話の中や振る舞いから、ニュージャージーやアメリカ中西部の中産階級家庭出身と推察されます。高等教育を受けた描写は直接的にはありませんが、洗練された会話術やビジネススキルから、大学卒業以上の学歴を持つと考えるのが自然です。

また、他の3人の登場人物(キャリー、シャーロット、ミランダ)より7〜10歳ほど年上とされ、年齢差をネタにされる場面もたびたびありますが、それを気にする様子もなく、むしろ堂々と振る舞っています。

行動原理|“私は私”という信念

サマンサの行動は一貫して「私はこうしたい」という意志に基づいています。誰かに認められることを目的とせず、自分の快楽や価値観に忠実です。特定のパートナーに依存しない恋愛観や、結婚を目的としない関係性も、彼女の自由な精神の表れです。

たとえば、シーズン2では乳がん検診を恐れるキャリーに「怖がってることを怖がるのをやめなさい」と励ます場面があり、精神的な強さと優しさを感じさせます。

恋愛観と身体性の肯定

サマンサは、性的関係を自ら選び取り、大切にすることを恥じることなく語ります。これは性的な魅力に依存しているというよりも、「自分の身体も欲望も、自分でコントロールするものだ」という思想に貫かれています。

キャリーとの対比で際立つサマンサの価値観

キャリー・ブラッドショーとサマンサ・ジョーンズは、価値観や恋愛観において根本的に異なっていました。

キャリーは「運命の人」を求めながら、その相手が自分に対して十分に応えてくれないことに不満を抱きがちで、「Bigは○○してくれない」という意識をしばしば持ちます。キャリーの運命の人幻想については『キャリーはなぜ“運命の人”を求め続けたのか』で詳述しています。

相手が自分の理想通りでないと、結果として「彼は運命の人ではなかった」という理由づけに転化して、自身の傷つきやすさを正当化する傾向があります。そしてその視点で記事を書くという困った人でもあります。

一方、サマンサはそうした他責的な姿勢を持たず、「〇〇してくれない男性」という評価軸よりも、「その人と一緒にいて自分が楽しいかどうか」「欲望や感情が自然に通じる相手かどうか」を基準に判断します。恋愛において、相手が与えてくれるかどうかではなく、自分が選ぶかどうかを最優先にするのです。

キャリーがしばしば“感情的でわがまま”と見なされるのは、この「運命の人幻想」に依存した「男性は〇〇すべき」的恋愛観にあり、一方サマンサが“潔く理性的”と評価されるのは、自分自身の判断基準と楽しさを軸にして恋愛を設計していたからです。

世にいうフェミニズムとは無縁の自立した人間(たまたま魅力的な女性)サマンサ

サマンサは「フェミニズム」という言葉を語ることはなく、またその思想に共感を抱いていたとも思えません。彼女はむしろ、社会構造や男性社会を敵視することはなく、自分が女性であることで不利益を被ったとも考えていません。

もしかしたらサマンサはフェミニズムという言葉を知らないのでは…と思えるほどです。あるいは映画「追憶」についての知らんぷりを決め込んだように、フェミニズムに対しても知らんぷりを決め込んだのかもしれません。

むしろ、「人生は自分の努力と選択次第」という強い信念を持っており、望むものすべてが手に入るとは限らないことも理解しています。

たとえば、彼女が欲しがっていたジュエリーをオークションで競り負けた場面では、悔しさをにじませつつも、その結果を素直に受け入れていました。しかも、そのジュエリーを落札したのは当時交際中だったホテル王であり、彼がその品をサマンサに贈ろうとした際も、彼女はそれを受け取ることに大きな価値を感じていない様子でした。

また、スミスとの別れにおいても、彼を愛しながらも「私は私の人生を生きる」と決断し、関係を解消します。自分の人生をどう使うかという根源的な選択を、きちんと引き受けているのです。彼女のその姿勢は恐らく思春期には完成していたのではないか…と理屈コネ太郎を考えています。

サマンサは、専業主婦を選んだシャーロットに対しても「あなたが幸せならそれでいい」と肯定的であり、「女性はこうあるべき」という規範の押し付けをしません。そして彼女は、女性であることを楽しんでいました。自分の仕事、身体、ファッション、年齢、魅力、そのすべてを主体的に引き受けたうえで、女であることに誇りを持ち、それを抑圧ではなく可能性として扱っていたのです。

映画『SATC』第1作に見るサマンサの完成形

映画1におけるサマンサは、物語の脇に控えながら、実は極めて重要な役割を担っています。彼女はこれまでのシリーズで示してきた「自立した女性」の生き方を、より深く、より静かなかたちで体現します。

ビッグに結婚式で置き去りにされたキャリーが深い心の傷を負った際、サマンサは最も静かで、最も強い味方となりました。メキシコでの慰安旅行では、騒がず焦らず、落ち込み続けるキャリーにそっと寄り添い、髪をといてあげる場面が印象的です。

セリフもないそのシーンは、“言葉よりも信頼を伝える友情”の象徴であり、サマンサという人物の奥行きを見せつけます。

前述したスミスに別れを告げる際、サマンサは、彼と向き合いながら静かに、しかしはっきりとこう告げます:

“I love you. But I love me more.”(あなたを愛してる。でも、私は私自身をもっと愛してる)

この言葉は、自分の人生を自分で選び取るという、サマンサの生き方を象徴しています。

映画1のラスト、ニューヨークでの50歳の誕生日パーティーでは、スパンコールもドレスもなく、ただ気の置けない3人の親友とテーブルを囲みます。シャーロットが「次の50年に」と乾杯すると、サマンサはふっと笑い、しっかりとグラスを合わせます。そこには、年齢も他人の評価も恐れず、自分の生き方を祝福できる女性の姿がありました。

この映画におけるサマンサは、シリーズ全体を通じて見せてきた自由さと快楽主義を内包しながら、さらにそれを成熟した“選択の哲学”へと昇華させた存在として描かれています。

映画『SATC2』での“失墜”

映画『Sex and the City 2』におけるサマンサの描かれ方には、多くのファンが失望しました。その理由については制作意図や背景を含め、さまざまな憶測がありますが、いずれにしても断定はできません。

ただし、多くのファンが「あれはサマンサらしくない」と感じたことだけは間違いないでしょう。更年期障害を描く意図があったとはいえ、中東というイスラム文化圏での彼女の振る舞いは、あまりにも聡明なサマンサ本来の姿とはかけ離れていました。

ホルモン剤の密輸や、露出過多のファッション、スークでの騒動などは、以前のサマンサが持っていた節度や知性を欠いており、「自由」と「無分別」が混同されてしまったかのようです。

おわりに|サマンサはなぜ魅力的だったのか

サマンサは「男社会と戦う」ことには無関心で、「自分自身のルールで生きる」という道を選び続けてきた女性です。年齢や容姿に頼るのではなく、自分を肯定し、人生を楽しむ姿には、見る者に勇気を与える力がありました。

本編や映画第1作におけるサマンサは、まさに「自分を生きる」女性の象徴でした。その生き方は、男性を愛する慈愛と戦略性に支えられた、女性であることを誇る、ひとりの自立した人間でした。

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