フグが釣れてしまった。
リリースするまでのあいだ、苦しそうに鳴くような音をたてていた。口唇にかかったフックを外しても、体表にも針が刺さっていて、これを外すのに手間取ってしまった。
釣った魚は、食べることが最大の供養だと人は言う。
食べもしない魚を釣るのは残酷だという意見にも、納得できる部分はある。
だが、私は人類だ。
数万年前から釣りをしてきた種族の末裔である(詳細は古代人も惹かれた釣りの本質|疑似・打出の小槌という魅力を参照)。
釣りという行為は、私の遺伝子の中に組み込まれているのだ。
そして「供養」とは、そもそも死を前提とした言葉である。
なくなった生命と、それを惜しむ残された人々の心の乱れを鎮めるのが供養だ。
さらにフグの場合、調理には特別な資格が必要であり、安易に「食べることで供養する」わけにもいかない。
魚の視点で考えれば、このフグは、わたし──理屈コネ太郎──が海中に配置した疑似餌をホンモノの餌と勘違いして食いついた。
この誤判断は、自然界では致命的なミスだったろう。だがこのフグは、今回は生き延びる機会を得た。
その可能性を高めるために私ができるのは、ダメージの少ないリリースだろう。
できるだけ魚にダメージを与えずにリリースしてあげたい。
釣りの技術よりも、どうすれば傷つけずに戻せるか──リリースの技術に意識が集中してしまうのだ。
リリースによって、このフグは再び海へ帰り、生き延びる可能性を得た。
そう考えるなら、リリースとは供養よりずっと前の、命を奪う以前の行為なのだ。
