リリース前提の釣りは残酷か?自然界との比較で見える視点

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はじめに

釣りは単なる娯楽でしょうか。それとも残酷な行為でしょうか。
中でも議論が尽きないのが キャッチ&リリース です。
「食べない魚をわざわざ釣るなんて残酷だ」「いや、自然界では敗者は即死なのだからリリースは優しい」――。
本記事では、そんな相反する見方を手がかりに、人類史や自然界との比較を通じてリリース釣りの意味を考えてみます。

今回はキャッチ&リリースについて理屈コネ太郎の管見内での私見をまとめました。
釣りは一大ジャンルであり、多くの人が釣りという行為について真剣に考えています。
本記事がそうした人々の一助になれば幸甚です。


リリース釣りは残酷なのか?

リリース前提の釣りについては、常に賛否両論があります。
「食べもしない魚を、ファイトやフックで外傷やストレスを与えるだけで、娯楽のために魚を苦しめるのは残酷だ」という批判はもっともです。
「食べる事が釣った魚への最善の供養だ」とのご意見にも頷けます。
しかし一方で、自然界の摂理と比較すると、リリースはむしろ魚にとって生存のチャンスを得るという、例外的に穏健な行為とも考えられます。
本稿ではその理由を掘り下げてみます。


自然界では「敗者、即ち死」

自然界では、魚たちは常に捕食・被捕食の命がけの対決を繰り返しています。
マグロが小魚を追い、サメやイルカが群れを襲う。そこでは「負け=死」が唯一のルールです。
つまり、日々の生活そのものが、命を賭けた対決の連続なのです。


自然史における普遍的な対決

人類は古代から魚を釣り、食べ、そして海岸線を遠くはなれ回遊魚をも相手にしてきました。
世界各地の遺跡からは、石や骨で作られた古代の釣針が発見されています。
たとえば日本では沖縄・南大東島で2万3千年前の釣針が見つかっており、これまで知られる世界最古級の事例とされています。
また、ポリネシアや地中海沿岸でも紀元前から釣針や漁具が出土しており、人類と魚との対決は文化を越えて普遍的に存在していたことがわかります。自然界では魚同士の対決が繰り返されていますが、人間と魚との対決もまた、実は何万年も前から続いてきました。

釣りは決して近年になって始まった自然への新規介入ではなく、世界各地で長い歴史を持つ営みです。
人間と魚のせめぎ合いはすでに自然史の一部を成しており、地球規模での普遍的な対決として連綿と続いてきたのです。


リリースは「例外的な結末」

人間の疑似餌に食いついた魚は、「捕食対象の選定に失敗した」ことになります。
そして魚にとっては捕食対象だと思っていた対決相手がたまたま疑似餌とラインでつながった人間だっただけですね。それはこれまでの歴史で何度も繰り返された出来事の一例にすぎません。
そして釣られた場合を自然界になぞらえれば、捕食対象に返り討ちにあって敗北し、食べられたりして死ぬことと同じです。
しかし相手が人間であり、しかもリリース派のアングラーであれば、結末は自然界とは異なります。
自然界では死で終わるはずの敗北が、「傷を負いながらももと居た場所で命を長らえるチャンス」へと変わるのです。
これは自然界には存在しない、人間という捕食者だけが魚にもたらす例外です。


魚にとっての「ダメージ」と「チャンス」

もちろん、フックやファイトで魚が受ける外傷やストレスはダメージです。
これは人間の娯楽のために魚に押し付けられた負担であり、否定できない現実です。
しかしその一方で、リリースによって魚は「釣られる前の場所に戻って死を免れる」というチャンスを得ます。

  • ダメージ:外傷やストレス

  • チャンス:自然界ならあり得ない、それまで居た場所に戻っての生存の可能性

この関係を考えれば、リリースは魚にとって悪い結末ではないと見ることができます。

👉 もちろん、リリース釣りであっても魚に外傷やストレスを与えるのは事実であり、それ自体が魚に優しいとは言えません。
けれども、リリースによって生存の可能性が残されるのは、自然界の「負ければ命を失う」という厳しい掟から見れば、ずっと穏やかな結末だと考えられます。


魚の選択で成立する対決

重要なのは、この対決が人間の一方的な押し付けではないという点です。
人間は疑似餌を投げ込みますが、それを食うかどうかは魚の判断に委ねられています。

実際、アングラーなら誰しも経験があるはずです。水面直下でルアーにチェイスしてきた魚が、最後の瞬間にプイとそっぽを向く。あるいは、しばらく追ったのに結局口を使わない。
疑似餌に反応はするが食い付かない魚、あるいは無視する魚の方が圧倒的に多いのは、経験的に多くのアングラーが知っている事実です。

魚は自然界で生き延びるために、常に「襲うかどうか」を用心深く選んでいるのです。

その中で「これは食える」と判断して疑似餌に食いついた魚だけが、釣り人とファイトすることになります。
つまり釣りとは、人間が疑似餌で提案し、魚が自分の判断で応じた瞬間に成立する対決なのです。
もちろん魚は人間の意図を理解していませんが、それは自然界の捕食にも共通する「情報の非対称性」にすぎません。


人間の矛盾とエゴ

ここまで魚と釣りの関係について考えてきましたが、最後に少しだけ「人間の性質」について触れておきたいと思います。

人間は、魚を食べ、殺し、時にリリースして楽しむ存在です。
その一方で、ただ愛情を注ぐためだけに犬や猫や鳥や魚や亀などの多様な動物を飼う――いわゆるペット文化も営んでいます。
「命を奪って楽しむ」と「命を慈しんで共に暮らす」が同じ人間の中に同居しているのです。

ペットを飼うときには、その動物の一生を引き受ける覚悟が必要です。
ただ愛するためだけではありますが、きちんとお世話をし、動物達の生活を継続させます。安易な気持ちで動物は飼えません。
しかし同時に、不妊手術や去勢手術といった医学的処置を合理的選択として行うこともあります。
これらはすべて、人間側の論理の所産です。

釣りと同じように、「食べることこそが魚への供養である」という考え方も人間側の解釈です。
けれど魚自身にとっては、食べられようが、放置されようが、命を失った後の出来事には意味はないでしょう。
ここでの死後の解釈や意味付けは、また人間の側の論理にすぎません。

私はそれを善悪に色分けしたいわけではありません。
ただ、人間とはそうした矛盾や不条理を内包した生き物である――その事実を受け入れるしかないと考えています。

こうした人間の在り方を踏まえると、リリース釣りの位置づけもまた別の光を当てられるのではないでしょうか。


おわりに

リリース前提の釣りは、確かに魚にダメージを与えます。
それを「残酷」と感じる感性も尊重すべきでしょう。
しかし、自然界では敗北は即死を意味します。
その中で、人間との対決に負けた魚がリリースされ、生存の可能性を得るのは、むしろ自然界に生きる魚にとって例外的に優しい結末ではないでしょうか。

リリース文化を「娯楽による残酷」と切り捨てるのではなく、
「魚にとって悪くない結末」「魚の選択によって成立する自然な対決」
として再評価する視点があってもよいのだと思います。


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