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はじめに
なぜボート遊びに釣りなのか。
ボートに乗っていると、「あの入り江の岩のそばには魚がいそうだ」「潮目の下に群れが潜んでいるのではないか」といった想像が自然に浮かんでくる。そして、船なら歩きや自動車では行けない場所にも到達できる。その想像を実際に竿で試し、結果を確かめられることが、ボート釣りの大きな醍醐味である。
しかし、魚の獲れ高という観点から見れば竿釣りは「正解」とはまったく言えない。効率や採算性を求めるなら、竿と糸を使う釣りは非効率そのものである。だからこそ釣りは「漁獲のための技術」ではなく、「遊び」としての意味を持つのだ。
第1章 魚の獲れ高では釣りはまったく不正解
商業漁業の主力は網や延縄であり、竿やラインを主力漁法とする例は例外的である。効率と漁獲量を考えれば、竿釣りは圧倒的に非効率だからである。
ただし、カツオ漁のように一本釣りが残っている例もある。これは単なる効率の問題ではなく、国際的な漁業ルールや資源管理の観点、さらには魚体を傷めにくく品質を保てるという実利がある。そして最も大きいのは、「一本釣りカツオ」というブランド価値である。一尾ずつ丁寧に釣り上げられたカツオは鮮度が高く、見た目も良いため市場で高値がつく。消費者にも「安心で質の高い魚」として認知されており、ブランドが一本釣りを支えているのである。
このような特殊な例を除けば、竿釣りは商業的には成立しにくい。つまり竿釣りは「漁獲のための手段」ではなく、「趣味としての遊び」であることが本質なのである。
第2章 魚の気持ちは誰にもわからない=妄想の世界
魚の行動や気分を人間が正確に知ることはできない。水温、潮流、光量、ベイトの動きなど、数え切れない要因が魚の行動に影響を与えるが、それを完全に解析することは不可能である。だからこそ釣り人は「今日はこのルアーなら反応するかもしれない」「このレンジで食うのではないか」と妄想を膨らませる。その妄想の積み重ねこそが釣りの出発点である。
第3章 魚探は妄想を掻き立てるツール
魚探は便利な道具である。水中に伝わる超音波の性質を利用して魚の存在を“示唆”してくれる。
しかし、一般的なプレジャーボートに搭載される魚探は、あくまで示唆にすぎない。魚種や船に対する位置を特定できるケースは稀である。
ゆえに魚探は船上のアングラーの妄想を膨らませる触媒である。「この層に反応があるならレンジを合わせてみよう」「群れの下に捕食者がいるのではないか」と想像を重ねる時間こそが釣りの楽しさであり、魚探はその妄想を掻き立てる火種なのだ。
第4章 妄想に基づく工夫が釣りの面白さ
釣り人は妄想に基づいて工夫を重ねる。ルアーの種類を変え、カラーを替え、リグを組み替え、アクションを試す。仮説が当たれば大きな喜びがあり、外れれば次の手を考える。その試行錯誤の繰り返しが、釣りを奥深い営みにしている。科学的な正解がなくても、妄想と工夫の過程そのものに価値があるのだ。
第5章 釣果は副産物にすぎない
釣果があればもちろん嬉しい。しかし、釣果だけに焦点を当ててしまうと、竿釣りの面白さは急速に色あせる。既述したように竿と糸を使った釣りは効率的な漁法ではないからだ。だからこそ「釣れない可能性込み」で楽しむことが本質である。釣果は副産物であり、釣りの価値は妄想と工夫を重ねる過程に宿る。
とはいえ、あえて効率の悪い竿釣りでの漁獲を高機能の鳥山発見用のレーダーや広範囲を高解像度でスキャンできる魚探ソナーなどを駆使して追い求めるダンディズムもあり得るとは思うが、プロの漁師からみれば、それはお金持ちの道楽として滑稽に映るかもしれない。
第6章 釣りはピクニックやハイキングの延長
釣りは自然の中で魚と戯れたり対決したりして過ごす時間そのものに価値がある。仲間とボートを出し、美しい景色を眺めつつ風や波を感じながら思い切りキャスティングすれば、それ自体が遊びとして成立する。釣れなくても、船上の人と海の中の魚との間で何らかのやり取りが生まれれば、それだけで楽しい。ボート釣りはピクニックやハイキングと同じく、自然と共に過ごす余暇の一形態なのである。
おわりに
魚の獲れ高を考えれば、竿釣りは正解ではまったくない。しかし、それでよい。妄想を膨らませ、工夫を重ね、時に釣果に恵まれ、時にバラしてしまう。その非効率の中にこそ釣りの醍醐味と多様性がある。
ボートに乗れば、歩いては行けない場所や陸からは見えない景色に出会える。そして「あそこに魚がいるのでは」と思い描いた妄想を、竿一本で試せるのがボート釣りの特別な価値である。魚探でさえ妄想を掻き立てる道具にすぎない。釣りの真の楽しみは、釣果という結果ではなく、その過程と体験そのものに宿るのだ。