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はじめに|「ぽい」でまわる社会
理屈コネ太郎は、“それっぽさ”で成立している商売のことをぽいぽいビジネスと呼んでいる。
論理っぽい、科学っぽい、正義っぽい──。
本物である必要はなく、本物に見えることが目的化した経済圏だ。
現代社会をひと言で表すなら、「ぽい社会」だと思う。
SNSを開けば、どこも「ぽい」の洪水である。
少しだけ理屈を添えた誰かの正義、心に寄り添う風の偽装された自己啓発、
どこかで聞いたような言葉をリズムよく並べた動画。
いま、人々は内容ではなく**「らしさ」**を買っている。
第1章|人はなぜ“ぽさ”に惹かれるのか
心理学的に言えば、人間は「分からないこと」に強いストレスを感じる生き物だ。
だから、理解した気になれる言葉を好む。
それがたとえ中身のない「ぽい」言葉でも、**“分かった気になる快楽”**が得られる。
脳は、複雑な現実を単純化するのが得意だ。
難しいことを考えるより、「っぽい説明」で安心したい。
いわば、“認知の省エネ”である。
ぽいぽいビジネスは、この心理的構造を正確に突いている。
「っぽさ」は、思考のバイパスだ。
不安な世界の中で、自分の位置を確認するための簡易マップ。
人は地図の精度よりも、描かれている安心を選ぶ。
第2章|ぽいぽいビジネスの構造
ぽいぽいビジネスの本質は、“演出”を商品化することだ。
内容ではなく、印象。
誠実ではなく、雰囲気。
検証ではなく、納得。
たとえば「科学的根拠っぽい」ビジネスは、やたらと数字を並べる。
「○○大学の研究によると」「約70%が効果を実感」などの語感の良い数字で、
“科学っぽい安心感”を売る。
「専門家っぽい」ビジネスは、白衣や肩書きを飾る。
「人間的っぽい」ビジネスは、涙と笑いのストーリーを織り込む。
要するに、「本物である必要はない」「本物っぽければいい」。
信頼を“積み上げる”よりも、“見せる”時代が来たのだ。
第3章|“ぽい”とは、ステレオタイプ化された広告である
“ぽい”とは、ステレオタイプを呼び起こす広告の言語である。(ステレオタイプについては別記事ステレオタイプとは何か? その弊害についてに詳述)
広告は、受け手がすでに持っているイメージを刺激し、考えずに理解させる。
たとえば、
白衣を着た俳優は「専門家っぽい」。
ヨガポーズのモデルは「健康的っぽい」。
英語のナレーションは「グローバルっぽい」。
それぞれが、観る人の頭の中の「既知のイメージ」を呼び出して、
「説明しなくても伝わる印象」を作り出す。
つまり、“ぽさ”とは、ステレオタイプを広告化した装置なのだ。
広告は「説明する」より「思い出させる」ことを目的とする。
人々は、新しい知識ではなく、「既に知っている感じ」を買っている。
ぽいぽいビジネスは、社会の記憶に寄生して成立している。
第4章|“本物のフリ”が本物を凌駕する
もはや「フリをする」こと自体が、能力になった。
“本物のフリ”を続けているうちに、それが実態として本物に見える社会。
かつての大量生産ブログ記事を思い出す。
あれは、まだAIが一般に知られる前──人間が手で書いていたが、
すでに「AI的な文体」で構成されていた。
内容がなくても、文体が“それっぽい”だけで記事は完成した。
AIが人間を模倣したのではなく、人間が先にAI的になっていたのだ。
ぽいぽいビジネスとは、
本質を追うより“本物の演出”に成功した人が勝つシステムである。
誠実さよりも、「誠実そうに見える即効性」が重要になった。
結び|ぽい世界で考える人
「ぽい」は悪ではない。
むしろ人間の自然な認知バイアスの延長線上にある。
問題は、それを自覚せずに信じてしまうことだ。
“ぽい”を笑い飛ばせる人は、まだ思考している。
“ぽい”に安心してしまう人は、思考を他人に委ねている。
ぽいぽいビジネスの時代に生きるとは、
“考え続けることが少数派になる”ということだ。
だからこそ、思考を放棄しない者にしか見えない風景がある。
そして、理屈コネ太郎がこうして誠心誠意書いたこの文章さえも、
読む人によっては“それっぽい理屈”に見えるかもしれない。
それでも構わない。
人は「ぽい」を完全に脱することはできないからこそ、
せめて自分の“ぽさ”を自覚して書くしかないのだ。
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