クリス・バングルはBMWを変えたデザイナーとして語られることが多い。
しかし、E36世代のBMWを「BMWがBMWだった時代」と感じてきた立場から見ると、彼の仕事は変革というより、断絶に近いものだったようにも思える。
バングル期の5シリーズや7シリーズは、発表当時こそ賛否を巻き起こしたが、現在のネオクラシック市場では特別な評価を受けているとは言い難い。
さらにBMWは、彼の退任後、そのデザイン言語をほぼ完全に消し去り、彼自身もその後、量産メーカーの包括的デザインに関与した形跡が見えない。
この記事では、E36 M3を新車時から所有してきた一人のBMWオーナーの視点から、
クリス・バングルの経歴、BMW在籍時の作品群、その評価の推移、そして「作家性」と「デザイナーの職能」の違いについて整理したい。
Contents
私とE36 M3 ─ なぜいまバングルを語るのか
1996年に新車で購入したBMW E36 M3(6MT 321PS)。ある時期からずっと倉庫に中で眠らせていた
このクルマを、いま正規ディーラーに依頼し、蘇生と公道復帰を進めている。
久しぶりに埃を払ったE36を眺めて、あらためて思う。
このスリムなボディ、端正なプロポーション、そして説明不要に腑に落ちる造形は、いま見ても美しい。現代の車両のなかに置いて見比べると、研ぎ澄まされた線と面が素晴らしい比率でクルマのシルエットをどの角度からみても構成している。
E36は、派手な主張をしない。
しかし「なぜBMWなのか」という問いに、形そのもので答えている。
私がM3に乗っていたころのBMWはクリス・バングルというデザイン責任者を擁しており、当時の私には、実は今の私にも、不可解なデザイン言語を散りばめた5た7シリーズを世に出した。
新規性の高い造形は、発表当時は賛否が渦巻くが、時間の経過とともに人々に理解されるようになると、それはやがて美しい造形として認知される。はなしてクリス・バングルの作品はどうなのか。時代の審美眼を耐え抜き、BMWセダン史のなかで一際輝く美しさの象徴になったのか…。
E36をみて、「ああ、やっぱりかっこいいなあ」と思った理屈コネ太郎が、現在地点からクリス・バングルのデザインについて考える事にした。
いか、全て私見である事をご銘記のうえ読み進めて頂ければ幸いである。
クリス・バングルの経歴 ─ BMW以前と以後
クリス・バングルはアメリカ出身のデザイナーで、BMW以前にはオペル(GM系)やフィアット、アルファロメオといったメーカーでキャリアを積んできた。
1992年、彼は外部からBMWに招聘され、デザイン部門のトップに就任する。
これはBMWにとって、明確な「外科手術」だった。
内部昇格では変えられない何かを、外部の異物によって壊すという選択である。
2009年にバングルはBMWを離れ、後任にはアドリアン・ファン・ホーイドンクが就いた。
その後のBMWは、少なくともバングル期の造形言語を継承したとは言い難い。
むしろ、意識的に距離を置いたように見える。
そして重要なのは、BMW退任後のバングルが、量産メーカーの包括的デザイン責任者として再び登場した形跡がないという事実である。
バングル期BMW ─ なぜ5シリーズと7シリーズは賛否を生んだのか
バングル期BMWを象徴するのは、5シリーズ(E60)と7シリーズ(E65)だろう。
とくにE65のリアデザインは「Bangle Butt」と揶揄され、強烈な賛否を呼んだ。
だが、問題は「奇抜だった」ことではない。
より本質的なのは、従来のBMWが持っていた設計文法と断絶して見えた点にある。
それまでのBMWは、
機能が先にあり
形はその結果として現れ
美は説明不要に立ち上がる
という構造を持っていた。
バングル期の造形は、逆にこう映った。
まずデザイン言語があり
- それによる造形があり
その造形の意味を後から説明する
オーナーが理解するには何等かの言語的な説明が必要
このズレは、プレミアム量産車の顧客層と相性が悪い。
ネオクラシック市場は正直で残酷だ
「評価する層は必ず存在する」。
これはどんな作品にも当てはまる。
しかし、ネオクラシック市場における評価が示すのは周辺層の声ではなく、分布の重心だ。
その意味で、バングル期の5シリーズや7シリーズは、現在「特別に輝いている」とは評価を受けていないようだ。
価格が急騰するわけでもなく、
「クリス・バングルのデザインだからプレミアムが付く」という評価軸も成立していない。
これは偶然ではない。
発表当時は賛否あった評価が、やがて否ないしな意味なしとの評価い落ち着いたと見るのが自然だ。
BMWはバングルの言語を消し去った
バングルがBMWを去った2009年以降を見れば明らかだ。
バングル期の造形的特徴は、ほぼ痕跡を留めていない。
マーケットの声に傾聴した結果、継続採用しなかったという判断だろう。
BMWは、組織として「この言語は長期運用に向かない」と結論づけた。
そしてバングル本人も、その後、量産車全体を統括する立場に戻ることはなかった。
この事実は非常に考えさせられる一点である。
作家性とデザイナーの職能は違う
ここで、美術史の話を少しだけしたい。
パブロ・ピカソのキュビズムは、
それ以前の絵画や彫刻が抱えていた問題(当時の美術界では広く共有されていたらしい)を、ピカソなりに解決した手法だった。
だから美術史では別格だが、「美を量産する手法」にはならなかったし、そうした問題の存在をしらない鑑賞者にはまったく何が良いのか分からない…のがキュビズムというものだろう。
フィンセント・ファン・ゴッホは、生前ほぼ評価されなかった。
だが死後、彼のタッチが「美が宿る必然性」を持つと理解された瞬間、評価は一気に跳ね上がった。
作家性とは、本来こういうものだ。
自分の問いを
- 自分の解決策で
自分のリスクにおいて
世間に問う
一方、量産メーカーのデザインは違う。
他者の資本で
大量に生産し
顧客の生活に入り込み
長期使用と再販を前提とする
ここで求められるのは作家性ではない。
顧客の期待を正確に捉え、その少し先を提示しつつ、生産性と収益性を同時に成立させる総合力だ。
それがデザイナーの仕事である。
バングルの問題は「才能」ではない
クリス・バングルはややデザイナーとしえの仕事を逸脱したのだと、今の私は考えている。彼のデザインは難解であったため、彼自身が広告やインタビューでその意味を言葉で説明しなくてはならなかった。
しかしデザイナーはプロダクトで周囲を説得するものである。その意味で、クリス・バングルは量産車のデザインにおいて、ある意味失敗していたのかもしれない。
また量産メーカーのデザイン責任者として、部下デザイナーを納得させ、腹落ちさせるだけのブリリアントさを示せなかったのかも知れない。
人は、やりたくないことを本気ではやらない。せいぜいやってるフリをするくらいだろう。
クリス・バングルのデザイン言語を理解できない部下デザイナーは、彼の元では本気で仕事ができなかっただろう。
どれほど理屈が正しくても、納得できなければ手は動かない。
組織でデザインを成立させるには、
「議論に勝つ」だけでなく、
「見せつけて黙らせる必然性」が必要だ。
「すごい!」と思わせる圧倒的力量がなければ、部下の業務意欲を掻き立てる事はなかなかできない。
そこが、バングル期BMWの決定的な弱点だったように私には思える。
E36世代のBMWが教えてくれること
E36は、奇抜ではない。
しかし、なぜこの形なのかを説明せずとも伝える力を持っている。
だからいま、E36を再び公道に戻そうとしているこのタイミングで、私はクリス・バングルを語り直したかった。
彼を否定するためではない。
デザイナーという仕事が、どこで作家性と線を引くべきかを考えるためだ。
彼は今もプロダクトデザイナーとして活躍中である。今後、もしかしたら、歴史に残るデザインを世に送り出してくれるかも知れない。
結論
バングル期BMWは歴史を揺さぶった
しかしそれは彼の在任期間に限られ、退任後にはほぼ揺ればなくなった
ネオクラシック市場は、その事実を静かに示している
作家性は量産デザインの免罪符にはならない
デザイナーの仕事は、顧客の期待を超える“総合力”である
E36世代のBMWがいまも評価される理由は、
この一点に集約される。
語らずとも、伝わる。
当サイト内の他の記事に移動するには
『BMW E36型M3(6MT 321PS)に関連する記事一覧』はココをクリック
『当サイト内記事のトピック一覧ページ 【最上位のページ】』はココをクリック
筆者紹介は理屈コネ太郎の知ったか自慢|35歳で医師となり定年後は趣味と学びに邁進中
