被害者より加害者に心を寄せる人が一定数いる理由|人間の心理構造から考える

被害者と加害者を対比的に描いた写真。左には亡くなった人物の写真を手にする遺族、右には頭を抱える加害者の姿が写されている。
被害者の喪失と、加害者の内面。 私たちの関心がどちらに向きやすいのかを、静かに問いかける構図。

「犯罪事件を報じるニュースに触れたとき、
被害者よりも、加害者の背景や動機に関心が向いてしまう。そして加害者の犯行を少し理解した気になる。
このような反応は、必ずしも珍しいものではない。

この現象はしばしば倫理の問題として語られるが、
心理学・社会心理学の知見を踏まえると、
まず人間の認知や感情の性質として説明可能な側面があるように思われる。

本稿の目的は、この心理を擁護することでも、否定することでもない。
なぜそう感じてしまうのかを説明したうえで、
それでもなお社会はどこに重心を置くべきかを整理することにある。

Contents

1.加害者のほうが「理解しやすい」

被害者と加害者のどちらが理解しやすいかを、
感情ではなく構造で比べてみる。

観点 被害者 加害者
出来事 突然・偶発的 行為に至る経緯がある
情報 少ない・断片的 多い・整理されやすい
語り 沈黙・喪失 供述・解説・分析
因果 結びつけにくい 結びつけやすい

人間は出来事を「原因と結果」で理解しようとする。
この傾向は帰属理論として古くから整理されており、
他者行動の理解は原因の推定を中心に構成されるとされる[1]。

このため、

因果的に説明できる対象のほうが、
認知的に“処理しやすい”

という非対称が生じることがある。

注意や関心が加害者側に集まりやすい第一の理由は、
道徳というより、認知の効率にあると考えられる。

2. 人間は「世界は理不尽すぎてほしくない」と願っている

無差別的な被害は、
「なぜ自分ではなかったのか」という問いを生む。

社会心理学では、人は
「世界はある程度、公正で予測可能である」
と信じたい傾向を持つとされ、
これを公正世界信念と呼ぶ[2]。

この信念が強く揺さぶられるとき、
人は出来事を説明可能な形へ再構成しようとすることがある。

加害者の背景理解は、

出来事に理由を与え、
世界を再び筋の通ったものとして感じ直す

という機能を果たしうる。

ここで行われているのは、
加害者の免責というより、
世界理解の再安定化であると説明できる[3]。

3. 被害者への共感は、あまりに心理的負荷が大きい

被害者や遺族への共感は、
強い情動を伴う場合がある。

共感研究では、

情動的共感(相手の苦しみを自分も感じる)
認知的共感(相手の立場を理解する)

が区別され、
特に情動的共感は心理的負荷を伴いやすいとされる[4]。

被害者への共感は、

苦しみが大きく
回復不能性が高く
想像が追いつかない

という特徴を持つことがある。

一方、加害者理解は、

分析
解説
構造理解

へと寄せやすく、
感情距離を保った処理が可能になりやすい。

このため人は無意識に、
耐えやすい理解の形式へと移動することがある。

4. 物語として語りやすいのは加害者側

人間は出来事を物語として理解する。
この点はナラティブ心理学で繰り返し指摘されている[5]。

犯罪報道において、

加害者:履歴・動機・転機 → 物語が構成されやすい
被害者:沈黙・喪失・不可逆性 → 物語が途切れやすい

という非対称が生じることがある。

物語として理解できる対象は、
「分かった気」になりやすい。

この親近感は倫理的判断というより、
意味づけのしやすさに起因する面がある。

5. 視点取得には、避けがたい偏りがある

他者の立場を想像する行為(視点取得)は、
しばしば自己中心的な出発点から十分に修正されないことがある。

Epleyらは、
視点取得が「自己中心的アンカリングと調整不足」に陥りやすいことを示している[6]。

被害者の心理は想像材料が乏しく、
加害者の心理は材料が豊富である。

この差が、
共感や理解の配分に偏りを生むことがある。

6. ここまでは「説明」であり、「評価」ではない

ここまで述べてきたのは、

なぜそう感じてしまうのか
どのような心理が働くのか

という説明である。

だからといって、
加害者への心情的理解から、
犯罪を正当化してよいという規範的結論が導けるわけではない。

そこには、法という人類の知恵による明確な線引きが存在する。

7. 法が担っている役割は何か

法は、人間の感情や心理を否定する装置では勿論ない。
同時に、それをそのまま通過させる装置でもない。

法の役割を一文で言えば、こうなる。

法とは、人間が「そうしたい」ことと、
社会が「そうしてよい」と認めることを分別する装置である。

この切断があるからこそ、

理解は許され、
しかし責任は保持される

という構造が成り立つ。

刑法における情状酌量は、
行為の正当化ではなく、
量刑の調整にとどまる。

原因理解が、そのまま免責になるわけではない[7]。

8. なぜこの切断が不可欠なのか

もし、

加害者への理解
心情的親近感

が社会的に正当化され、
被害より前面に出るようになると、

被害の不可逆性が軽視される
責任の所在が拡散する
被害者が語りにくくなる

といった副作用が生じうる。

これは共感の問題というより、
社会の安全装置の配置の問題である。

9. 人間理解と社会設計を混同してはいけない

被害者よりも加害者に心を寄せてしまう心理は、
人間の仕様の一部である。

しかし法は、その仕様を補正するために存在する。

私たちは、

「そう感じてしまう自分」を理解しつつ、
それでも被害を中心に据える

という配置を意識的に維持する必要がある。

それは感情の否定ではない。
他者と共に生きる社会人としての理性である。

なお、こうした共感と法規範が交差する具体事例については法規範が共感で上書きされるとき ――元首相暗殺や熊駆除に見る「規範の順序」の揺らぎを参照されたい。

参考文献(本文中番号対応)

[1] Heider, F. (1958). The Psychology of Interpersonal Relations.
[2] Lerner, M. J. (1980). The Belief in a Just World.
[3] Hafer, C. L., & Bègue, L. (2005). Psychological Bulletin, 131(1).
[4] Batson, C. D. (1991/2014). Empathy–Altruism Hypothesis.
[5] Bruner, J. (1990). Acts of Meaning.
[6] Epley, N. et al. (2004). Journal of Personality and Social Psychology, 87(3).
[7] Weiner, B. (1985). Psychological Review, 92(4).


当サイト内他の記事への移動は

元医者による人生・社会・歴史を見つめるエッセイ集

当サイト内の全トピック一覧。最上位ページです。
当サイト内記事のトピック一覧ページ

▶筆者紹介は『理屈コネ太郎の知ったか自慢|35歳で医師となり定年後は趣味と学びに邁進』

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です