本稿は、前稿
「被害者より加害者に心を寄せる人が一定数いる理由|人間の心理構造から考える」
で整理した原理を、具体的な出来事に即して検討する試みである。
前稿では、
なぜ人は加害者の背景や心情に注意を向けてしまうのか
しかし、その心理的理解から規範的結論は導けない
という点を、心理学と法の観点から整理した。
本稿では、その原理が現実の言論空間でどのように揺らいだかを見ていく。
Contents
1. 安倍元首相暗殺をめぐって、言論会で起きた事
安倍晋三氏が暗殺された直後、一部の言論空間では次のような語りが見られた。
「彼が〇〇のような社会を作ったから殺されたのだ」
「彼を殺したくなる気持ちも理解できる」
「個人の犯罪というより、構造的な必然だった」
これらの言説に共通しているのは、
犯人の背景や動機への理解が、被害者の評価や位置づけにまで影響を及ぼしている点である。
ここで行われていたのは、単なる心理的説明ではない。
殺人という行為がまず否定されるべき出来事である、という前提が、相対化されていく過程だったと考えられる。
2. 「構造分析」という名の、評価のすり替え
これらの言説は、しばしば「冷静な構造分析」を装う。
社会が悪かった
政策が人を追い詰めた
権力者はすでに加害者でもあった
こうした言葉は、一見すると知的で、責任ある態度に見える。
しかし、その語りの中で静かに起きているのは、次のような変化である。
殺人という行為そのものへの否定が後退し、
代わりに「なぜ起きたのか」という説明が前面に出てくる。
このとき、説明は単なる理解にとどまらず、
行為の評価にまで影響を与え始める。
これは説明の問題というより、
評価の順序が入れ替わっている状態だと言える。
前稿で確認した通り、
加害者への心情的理解から、
犯罪を正当化してよいという規範的結論が導けるわけではない。
にもかかわらず、「理解できる」という言葉が、
いつのまにか「仕方がなかった」「避けられなかった」へと近づいていく。
ここに、順序の揺らぎが生じている。
3. なぜ普通の生活者は同調しなかったのか
興味深いのは、こうした言説が
一般の生活者にはほとんど共有されなかった点である。
政治的立場がどうであれ、
殺人はまず否定されるべきである
政策評価と生命の不可侵性は分けて考える
という感覚は、多くの生活者に共通していたように見える。
これは高度な法哲学の成果というより、
明日も同じ社会で暮らす
暴力が正当化される世界に住みたくない
という、日常的な生活感覚に根ざした規範である。
この感覚を「素朴」「感情的」と退けることは容易だが、
実際にはこちらの方が、法治社会の前提に近い。
4. 熊駆除をめぐる議論に現れる、同じ構造
この種の順序の揺らぎは、政治事件に限られない。
各地で議論になる熊駆除の問題でも、
よく似た構図が見られる。
「熊が悪いわけではない」
「人間の側が環境を壊した」
「可哀そうだから殺すべきではない」
これらの感情は理解できる。
しかし、議論の重心が熊への共感に移った瞬間、
次の問いが後景に退きやすくなる。
そこで暮らす人間の安全はどうなるのか
子どもや高齢者の生命はどう守られるのか
熊駆除の是非は簡単な問題ではない。
ただ少なくとも、
共感が先に立ち、
人命保護が後回しになる
という順序は、
安倍元首相暗殺をめぐる言説と構造的に似ている。
5. 共感が「正しさ」に近づくとき
ここで問題にしているのは、共感そのものではない。
加害者の背景を理解すること
動物の苦しみに心を寄せること
これらは人間として自然な反応である。
問題になるのは、
その共感が判断の基準にまで昇格することである。
理解できるから
可哀そうだから
という理由で、
「だから仕方がない」
「だから強く責任を問うべきではない」
という方向に判断が動き始めたとき、
社会の安全装置は不安定になる。
6. 言論人という立場の影響
こうした規範の順序の揺らぎが、
影響力の大きい場で語られることには、特に注意が必要である。
言論人や評論家は、
単なる私人ではなく
発言が判断の雛形として受け取られる立場
にある。
その立場で、
思想信条の自由を盾に
発言の影響を十分に引き受けないまま
過激な評価の転換を流通させる
とすれば、それは自由の行使というより、
責任の扱い方の問題だと考えられる。
7. 規範の順序を保つということ
本稿で繰り返し確認してきたのは、きわめて基本的な点である。
説明は、免責ではない
共感は、正当化ではない
理解は、許可ではない
安倍元首相暗殺も、熊駆除も、
感情を強く揺さぶる出来事である。
だからこそ、
何を最初に否定し、
何を最後まで守るのか
という判断の順序が問われる。
その順序が崩れたとき、
社会は静かに不安定になる。
結語
本稿で問いかけているのは、
私たちがどの順序で物事を判断しているのかという点である。
共感できることと、
正しいと評価されることは同一ではない。
その違いを保ち続けることが、
法治社会に生きる私たちの理性であり、
言論に関わる者にとっても重要な姿勢ではないかと、私は考えている。
当サイト内他の記事への移動は
▶ 当サイト内の全トピック一覧。最上位ページです。
当サイト内記事のトピック一覧ページ
