シニアの学びなおしとは何か ――あの時の「あいつ」にならないために

夕暮れの窓辺で本を前に思索するシニア男性を描いた油絵風イラスト
夕暮れの光の中で、これまでとこれからを静かに見つめ直す時間

シニアの学びなおしには、いくつかの型がある。

得意なことの周辺領域を学びなおしてもよいし、
これまで不得手だった分野に、あらためて向き合ってもよい。

たとえば、経済学を専門にしてきた人が、会計学や簿記を学ぶ。
あるいは、総務や人事の仕事を長く続けてきた人が、ファイナンスや統計・確率を学ぶ。

どちらが正しい、という話ではない。
学びなおしの価値は、何を学ぶかよりも、
それを自分のどこに接続させるかで大きく変わる。

得意な領域で高い到達点にある人ほど、
周辺領域を学んだときの気づきは大きくなる。

新しい知識そのものよりも、
「これまで自分が使ってきた考え方が、別の言語で説明されている」
「別分野だと思っていたものが、同じ構造の上に乗っている」
そうした再発見が次々に起きる。

それは勉強というより、
自分の思考が再編成されていく感覚に近い。

一方で、不得意な領域の学びなおしには、別の意味がある。

不得意分野を、無理に得意にする必要はない。
しかし、自分の得意領域に接続できるところまで理解すると、
世界の見え方が変わる。

これまで見えていなかった制約条件が見え、
自分の判断が、どこまで有効で、どこから危うくなるのかが分かる。

その結果、
得意領域の守備範囲が広がり、
視点が一段、あるいは二段上に引き上げられる。

ただし、シニアの学びなおしには、避けられない苦しさがある。

新しい領域を学ぶ過程で、
自分の不見識や思い込み、理解の浅さが、はっきりと露呈する。

場合によっては、年下の人から若干バカにされる
(ような気がするだけ)かもしれない。

若い頃のように、勢いや言い回しで誤魔化すことはできない。
これまで積み上げてきた経験や成功体験による自尊心が、
むしろ足を引っ張ることもある。

その過程で、
嫌な気持ちになることが、しばしばある。

多くの人は、ここで立ち止まる。

この年になって、わざわざ自分が傷つくような勉強はしたくない。
気軽に、趣味程度で、楽しく学びたい。
そう思う気持ちは、自然だし、まったく当然である。

そういう学びも、それはそれで、十分に価値がある。

けれど、もし
自分の思考と行動の最大限を、もう少し先まで確かめたいと思うなら、
この嫌な感覚を引き受けて、正面からその嫌な気持ちの正体を見極めてみよう。

新しい知識そのものよりも、
自分の未熟さを直視し、受け止めることに、
シニアの学びなおしの本当の効用がある。

そして、その過程を越えた先には、
確かな手応えと悦びがある。

人生の先輩として若い人を見るとき、
「あいつは、もう少し頑張れば伸びるのに…」
と残念に感じた「あいつ」を、部下や後輩に持った経験があるだろう。

そのときの「あいつ」は、結局、頑張れなかった。

そして、もしかしたら今の自分は、
その時の「あいつ」なのかもしれない。

先達から見れば、できるはずの「あいつ」はやらなかった。

だから、今、あなたがやることは無駄にならない。
絶対に成果が出る。

学びなおしは、
未来のための準備という側面もあっていい。

でも、学びなおしの面白いところは、ここまで来た自分が、
さらに成長できるという実感だ。

何もしなくても、何かをしても、心臓の拍動が続くなら、
一回当たりの拍動の価値や意味を増大させたいと思うのは、生き物の本能だと思う。
いや、違うな。
人生のタイムリミットを意識し始めたシニアの健全な欲望が、相応しい表現か。

その欲望に従い、自分の思考と行動をよりよくしていく。
人生の午後を生きるシニアにとって、これ以上の悦びがあるだろうか。


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