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会計は虚偽を嫌う歴史ある知識体系
会計は、経営や経済について考える際の中核に位置する、原器的な思考ツールである。
会計は Accounting と呼ばれるとおり説明を重視し、虚偽を徹底的に嫌う。
事実を事実のまま扱い、誰かに都合のよい物語を付け足させない。
嘘が嫌い…という人には非常に親和性が高い思考ツール。
その性質ゆえに、会計の知識は、経営や経済をめぐる「もっともらしい説明」の嘘や誇張を見分けるための道具にもなる。
会計、特に複式簿記は、近代的な資本主義が成立する以前に生まれ、
その後の甚大な経営環境の変化のなかでも、一貫して強固な有用性を示し続けてきた。
歴史を耐え抜いた、原理や定理の塊のような頼もしいツールでもある。
判断に迷ったら会計的視点から事象をみつめなおすと、結構、解決策が見つかったりする。
会計を理解し、使いこなすことが、思考や意思決定にどのような意味を持つのか。
本記事では、理屈コネ太郎の私見として、その点を述べてみたい。
会計学を専門にやると良い…という話ではなく、強固な思考ツールとしてその存在と有用性は知っておいた方が宜しいですよ、と伝えるのが本記事の趣旨である。
会計とは、何をしている知識体系なのか
会計(Accounting)とは、
国・企業・個人といった経済主体の財政状態を、
資産・負債・純資産・収益・費用といった、世界共通の基礎概念で説明し、
一定期間の損益を確定するための知識体系である。
ここで重要なのは、会計が評価や感想ではなく、
説明が成立しているかどうかを扱う枠組みだという点である。
希望や期待を語るのは、会計情報を手にした人間側の営みである。
なぜ、その基礎概念に整理できるのか
経済的な営みは、どれほど複雑に見えても、最終的には次の問いに分解できる。
いま、どのような価値を保有しているのか
どのような義務や返済責任を負っているのか
それらの差分は誰に帰属しているのか
一定期間で、価値はどれだけ増減したのか
これらに答えようとすると、経済事象は自然に、
資産
負債
純資産
収益
費用
という概念に整理される。
会計がこの形を採っているのは、恣意的な分類の結果ではない。
経済活動そのものが、この形で説明可能だからである。
会計が示す「十分な説明の粒度」
会計の有用性は、情報を細かく集める点にあるのではない。
むしろ、これ以上分解すると意味が失われ、
これ以上まとめると実態が見えなくなる、その境界を示している点にある。
この粒度を知っているかどうかで、
ある説明が「事実に即している」のか、
それとも「説明の途中で止まっている」のかが分かれる。
経済事象は、必ず両面を持つ
会計的に経済を見ると、
一つの事象を片側だけで語る説明に違和感を覚えるようになる。
たとえば、負債が増えたという事象は、
同時に、何らかの資産やサービスを購入したことを意味する事がおおい。
どちらか一方だけを取り出した説明は、
事実の一部ではあっても、説明としては完結していない。
会計が虚偽を嫌うとは、
この両面性を無視した語りを許さない、ということでもある。
会計を知ると、何が変わるのか
会計を理解すると、数字の大小や単一の指標そのものよりも、
どの概念とどの概念が対応しているか
状態の説明なのか、期間の説明なのか
説明が最後まで到達しているか
を見るようになる。
結果として、
威勢のよい言葉や分かりやすい結論に対しても、
「それは何と何を対応させた説明なのか」と立ち止まれるようになる。
これは批判的になるということではない。
事実と説明を混同しなくなるということだ。
地味だが、信頼できる思考ツールとしての会計
近年、経営や経済を語る言説は、
わかりやすさや華やかさを優先したものが目につく。
それらは多くの場合、「考えた気になる」ための材料にとどまる。
一方で、自分の家計、勤める会社、国全体の経済状況を、
感情や立場から切り離して捉えるための道具は多くない。
会計は、その数少ない例外のひとつだ。
会計を学んだからといって、
経営者になれるわけでも、投資で成功できるわけでもない。
しかし、何が起きているのかを世界共通の基準で冷静に捉える足場は、確実に手に入る。
理系として捉えた経済学に匹敵するほど、
思考の強度と再現性を持ちながら、
会計のエッセンスを習得するのに必要な時間はせいぜい数十時間程度だ。
資格取得が目的なら、数百時間必要だが、ここではそういう話はしていない。
人生のなかで、その時間を使う価値がある分野かどうか。
少なくとも一度、超簡単な参考書を手に取って確かめてみるだけの理由は、
会計には十分にあると思う。
