人はみな自分の人生の主人公なのか? ☆ その他大勢の自分を許せない人の滑稽と悲劇

「人はみな、自分の人生の主人公である」

よく耳にする言葉です。自分の人生を主体的に生きようという、前向きな意味で使われています。

しかし、この命題はどこまで正しいのでしょうか。

そもそも、主人公とは何でしょう。

自分の人生を、自分の主観を通して経験するという意味なら、確かに誰もが自分の人生の主人公と言えるかもしれません。

しかし、それを主人公の条件とするなら、意識を持つ生物はすべて、それぞれの人生の主人公ということになります。

犬も猿も、野生のシカもです。

私たちは、自分の認識が及ぶ範囲を超えた環境の中で、他の生物や人々と関わりながら生きています。

自分の主観から見える世界と、その世界の中にいる自分の立ち位置。

この二つを区別するところから、人間の自己認識に潜む、ある滑稽さと悲劇が見えてきます。

1.意識・主観・主人公

主人公とは、本来、物語の中心に据えられた登場人物を指す言葉です。

では、「自分の人生の主人公」とは、どのような意味なのでしょうか。

ここで、意識と主観について考えてみます。

この記事でいう意識とは、何かを感じ、経験している状態を指します。そして主観とは、その経験が、経験している存在自身にとってどのように現れるかという、一人称の視点です。

私たちは、目に映る景色や耳に入る音、喜びや悲しみを、自分自身の主観を通して経験しています。

自分の人生を振り返るときも、これからの人生を想像するときも、そこには常に自分がいます。

この経験の当事者を主人公と呼ぶなら、意識を持つ存在はすべて、それぞれの人生の主人公ということになります。

人間以外の動物についても、同じことが考えられます。

犬には犬が経験する世界があり、猿には猿が経験する世界があります。

野生のシカも、森の中で周囲を感じ取り、危険を察知し、行動しています。

そのシカにも主観的な経験があるなら、シカも自分の人生の主人公と呼べるのでしょう。

しかし、森ではシカの知らないところで捕食者が活動し、他の生物が生き、自然現象が進行しています。

そのシカが猟師に撃たれ、意識を失うまでの経験さえ、シカ自身の主観を通して生じるものです。

その意味では、シカは悲劇の主人公にもなり得ます。

自分の人生の主人公であるということと、その人生が自分の望むように展開することは、異なる命題なのです。

また、主観的な経験の当事者であることによって、周囲の環境における特別な地位が与えられるわけでもありません。

この関係は、人間にもそのまま当てはまります。

2.自他の主観と社会的な立ち位置

私たちは、それぞれ自分の主観を通して人生を経験しています。

私に希望があるように、他者にも希望があります。

私が自分の判断を正しいと考えるように、他者も自分の経験や価値観に基づいて判断しています。

そこには多様な正義があり、多様な幸福があります。

我が自由であれば、彼もまた自由なり。

私が自分の人生を生きているように、他者もまた自分の人生を生きています。

自分が重要だと考えている出来事に、他者がほとんど関心を持たないこともあります。

逆に、他者が人生を懸けて取り組んでいることについて、私がほとんど知らない場合もあります。

人間は、そうした無数の主観が交差する環境の中で生きています。

自分の主観を通して認識する世界には、常に自分が登場します。

しかし、自分が関わる人々や社会を、他者の視点も含めて眺めてみると、そこには多くの人々がいて、それぞれが異なる役割を担っています。

自分は、その中にいる一人です。

ある集団では中心的な役割を担っていても、別の集団ではその他大勢の一人であることもあるでしょう。

自分の主観の中心にいることと、自分が認識する世界の中心人物であることは違います。

この区別を自覚できないまま、自分が関わる人々の中で振る舞うと、どのようなことが起きるのでしょうか。

3.舞台の中央へ踊り出るコール・ド・バレエ

ここで、人生を一つの舞台に見立ててみましょう。

例えば、クラシック・バレエの舞台です。

そこにはプリマ・バレリーナがいて、ソリストがいて、群舞を構成するコール・ド・バレエ(corps de ballet)がいます。

舞台袖にはスタッフがいて、客席には大勢の観客がいます。

それぞれが異なる役割を担い、一つの舞台を成り立たせています。

誰がプリマで、誰が群舞の一人なのか。

舞台上の共演者たちは、その配役を知っています。そして、客席にいる観客にも、その構図は明らかです。

ところが、コール・ド・バレエの一人として舞台に立ちながら、自分が群舞の一人であることを認識していない踊り手がいたとします。

その踊り手も、音楽を聴き、共演者の動きを見て、客席にいる観客の存在を感じています。

自分の主観を通して経験する劇場の世界には、常に自分が登場します。

しかし、共演者や観客が自分をどのような存在として見ているかには、関心が向いていません。

自分の主観を通して劇場を経験しているという事実が、劇場そのものが自分を中心に成り立っているという認識へと、いつの間にかすり替わっています。

そして、自分が群舞の一人であることに気づかないまま、プリマのつもりで舞台の中央へ踊り出てしまいます。

群舞の一人が、プリマのつもりでスポットライトの下へ踊り出る。

本人は、ごく自然に振る舞っているつもりです。

しかし、共演者も観客も、その踊り手がコール・ド・バレエの一人であることを知っています。

舞台全体を眺めている人々には、その姿がどのように見えるでしょうか。

そこには、何とも言えない滑稽さがあります。

しかも、本人は自分の滑稽さに気づいていません。

自分には見えていない自分の姿が、周囲の人々には見えているのです。

4.少年少女の滑稽とプロの悲劇

さて、ここで舞台に立っているのが、まだ幼い少年少女だったらどうでしょうか。

バレエ教室の発表会で、群舞の一人として踊っている子供が、ついプリマのつもりになって舞台の中央へ踊り出てしまう。

先生や共演者は驚くでしょうし、観客から笑いが起こるかもしれません。

しかし、それは子供らしい微笑ましい失敗として受け止められることもあるでしょう。

何より、その子供には、まだ未知の可能性が膨大にあります。

これから学習し、経験を積み、技能を磨くことで、いつか本当に主役として舞台の中央に立つかもしれません。

若さと強気は相性がよいものです。

自分の立ち位置を過大評価することが、将来の可能性を広げる力になる場合もあります。

では、その踊り手がプロのバレエ団に所属するダンサーだったら、どうでしょうか。

長年にわたり群舞の一人として評価され、コール・ド・バレエの役割を与えられてきた踊り手です。

その人が、ついうっかり、自分はプリマであるかのように舞台の中央へ踊り出てしまう。

プロの舞台では、それは作品全体を乱しかねない重大な逸脱です。場合によっては、ダンサーとしてのキャリアさえ損なうかもしれません。

しかも本人は、自分の立ち位置を誤認していることに気づいていないのです。

周囲の誰もが群舞の一人として認識している踊り手が、本人だけはごく自然に、プリマとして踊っているつもりでいる。

その姿は周囲から見れば滑稽であり、本人の人生にとっては悲劇になり得ます。

この対比は、人間の人生にも通じるものがあると思います。

青年期には、自分の可能性も、社会の中での立ち位置も、まだ十分には見えていません。

しかし、年齢を重ねるにつれて、人は学習し、経験を積み、成功や失敗を繰り返します。

その過程で、自分の能力や資質、社会との関係、そして自分が到達した場所について、さまざまな情報が蓄積されていきます。

人生の前半に存在していた可能性の一部は、現実の能力や実績となって現れています。

一方、これから新しい可能性を現実のものにするために使える時間は、確実に短くなっていきます。

そうした人生の後半になっても、なお自分の立ち位置を過大評価し、その他大勢の一人である自分を認識できないとしたら、どうなるでしょう。

自己認識と現実の食い違いが、他者との関係や自分の選択に影響を与え、人生の幸福を損なうこともあるでしょう。

しかも、その間にも、自分に与えられた時間は過ぎていきます。

若い頃には許容され、時には成長の原動力となった自己の過大評価が、人生の後半には、幸福を損なう原因になることがあるのです。

自分の立ち位置に気づかないまま、プリマのつもりで踊り続ける。

そして、舞台は終幕へと近づいていきます。

ところで、私たち自身は、自分が立つ舞台で、観客からどのように見えているのでしょうか。

5.自己認識の乖離と自己価値の基準

群舞の一人がプリマのつもりで舞台の中央へ踊り出るとき、本人は自分の立ち位置と振る舞いの食い違いに気づいていません。

では、その食い違いを示す情報に接したとき、人はどのように反応するのでしょうか。

ここには、もう一つの問題があります。

自分が特別な存在であることに価値を置いている人にとって、その他大勢の一人であるという事実は、自分の価値を損なうものとして感じられることがあります。

自分はもっと重要な存在であるはずだ。

自分は舞台の中央に立つべき人間なのだ。

そのような自己像に価値を置いていれば、現実の自分について得られる情報も、自分が信じる自己像に沿って解釈しやすくなるでしょう。

自分の立ち位置に気づかないという認識の問題に、その立ち位置を受け入れたくないという価値観の問題が重なるのです。

そして、その価値観が強いほど、自己認識を修正することは難しくなります。

しかし、ここには一つの疑問があります。

そもそも、なぜ舞台の中央に立つことが、自分の価値を証明する条件になっているのでしょうか。

コール・ド・バレエの一人として踊ることには、その役割ならではの経験があります。

仲間と一つの作品をつくる喜びもあるでしょう。

自分が踊ることそのものを楽しむこともできます。

それらの経験が本人にとってどれほど価値あるものかは、舞台上の序列だけで決まるものではないでしょう。

ところが、プリマであることを自己価値の条件にしてしまうと、群舞の一人である自分を受け入れることが苦痛になります。

そして、その価値基準に合わない現実を認識することも難しくなっていきます。

自分の立ち位置を過大評価することに加え、立ち位置そのものを自己価値の尺度にしてしまう。

この二つが重なるところに、その他大勢の一人である自分を許せない人間の、滑稽さと悲劇があるように思います。

6.自己受容と幸福の端緒

さて、ここまで考えてくると、一つの問いが残ります。

その他大勢の一人である自分を受け入れたとして、その先に幸福はあるのでしょうか。

私は、その問いに対する答えは、案外身近なところにあるように思います。

もう一度、バレエの舞台を思い浮かべてみましょう。

スポットライトは、今日もプリマを照らしています。

コール・ド・バレエの一人である自分には、自分の立ち位置があります。

音楽が流れ、仲間たちは踊っています。

そして、自分も踊っています。

自分が群舞の一人であることを理解し、その立ち位置を受け入れたとき、舞台の見え方も変わってくるでしょう。

自分が踊ることを楽しむこともできます。

仲間と一つの舞台をつくることに喜びを見出すこともできます。

新しい役割に挑戦したければ、そこから歩み始めることもできます。

自分が何を楽しみ、何を望み、どのように生きるのか。

その答えは、それぞれの人の中にあるのでしょう。

自分の現在地を知り、その自分を引き受けたうえで、自分の道を歩いていけばよいのです。

その他大勢の一人である自分を許せないという価値観を手放したとき、自分の人生をどのように生きたいのかという問いが、改めて姿を現すのかもしれません。

人生の後半ともなれば、残された時間は貴重です。

自分が特別な存在であるという自己像に囚われ、その自己像に見合う立ち位置を求め続ける人生。

自分の現実を引き受け、そこから自分の望む道を歩いていく人生。

そこには、人生に対する姿勢の大きな違いがあります。

その他大勢の一人であることを、ありのままに受け止める。

その自分を抱きしめ、そこから自分の道を歩いていく。

ひょっとすると、そうした自己受容こそが、幸福の端緒なのかもしれません。

その他大勢の一人である。

それで、一体何の問題があるのでしょうか。

私は、それでよいと思っています。


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作成者: 理屈コネ太郎

元消化器内視鏡医・産業医。現在は社会・人間行動・構造分析をテーマに執筆活動を行う。定年退職後はヨット・ボート・クルマなど趣味と構造研究の日々を過ごす。

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