キャリーはなぜ“運命の人”を求め続けたのか|ロマンティックラブと予定説、そして資本主義の精神

キャリーはなぜ“運命の人”を求め続けたのか|ロマンティックラブと予定説、そして資本主義の精神
キャリーはなぜ“運命の人”を求め続けたのか|ロマンティックラブと予定説、そして資本主義の精神

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はじめに|恋愛観は思想である

『Sex and the City(SATC)』の主人公キャリー・ブラッドショーは、幾度となく恋に傷つき、それでもなお「運命の人」を探し続ける女性です。
彼女がなぜ、あれほどまでに「運命の人」に固執したのか。
その行動原理を、単なる性格の問題や恋愛依存と捉えるのではなく、キュリーの恋愛観を読み解く事で明らかにしてみてみようと思います。

本記事では、キャリーの恋愛観の根底にあるロマンティックラブ・イデオロギーと、プロテスタントの一派であるカルヴァン派の予定説を引き合いに出し、さらにマックス・ウェーバーの社会学を用いて、キャリーの恋愛観を信仰に似た“思想”として読み解いていきます。


ロマンティックラブとは何か|“運命の恋”という信仰

ロマンティックラブ(romantic love ideology)とは、「たった一人の運命の相手と出会い、魂で結ばれることこそが人生の完成である」とする信念体系です。(ロマンティックラブイデオロギーの詳細についてはコチラのウィキペディアも参照して下さい)

これは近代ヨーロッパの個人主義と深く関係し、家制度や宗教共同体の崩壊とともに、愛という私的な体験が人生の意味を担うようになった背景を持ちます。

キャリーにとって恋愛は、娯楽でも打算でもなく、自己の存在価値を確認する宗教的儀式のようなものだったのです。


予定説と「運命の恋」の構造的な類似

プロテスタントのカルヴァン派における「予定説」はこう語ります:

神はすでに、誰が救われるかを決めている。だが人間はその運命を知ることはできない。

救われる者は自ずと“救われし者らしく”振る舞う。禁欲的に、勤勉に、誠実に。

ここにロマンティックラブの構造が重なります。

予定説(カルヴァン派)ロマンティックラブ
自分が選ばれているか分からないこの人が“運命の人”かは分からない
救われる者は救われし者らしく生きる運命の恋は「運命らしさ」を伴って現れる
苦難や試練は選ばれし証し試練を乗り越えて結ばれることで“運命”を証明
行動は信仰の表現愛の苦労は“信じる力”の証

キャリーが苦悩やすれ違いを“恋の証し”と見なすのは、まさに信者が試練を“救済のしるし”と受け止める心性と一致します。


資本主義の精神とロマンティックラブの同型性

このような予定説に基づく内面の不安と、それを打ち消すための行動様式について、社会学者マックス・ウェーバーは名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中でこう分析しました。

救済される者であるという確信を得るために、人々は禁欲的な労働と合理的な生活を選び取った。
やがてそれは、近代資本主義の精神=勤勉・倹約・職業への献身という価値観を生み出した。

つまり、「救われているかどうか分からない」という存在論的不安が、人を勤労へと駆り立て、その行動様式が資本主義を形成したというのです。

この構造は、ロマンティックラブを信じる人々の恋愛行動にも重ね合わせることができます。

「この人が運命の人か分からない」
「でも、信じて行動しなければ、その運命は証明できない」

だからこそキャリーは、何度傷ついても再び愛に向かい、行動し、語り、書き続けたのです。
それは、「愛に選ばれた者」としての確信を得るための営みでした。

そしてまさにこのような行動様式こそ、近代的恋愛観=ロマンティックラブの精神性を支える柱なのです。


ビッグという「神の沈黙」

キャリーが長年にわたって執着したミスター・ビッグは、彼女にとってまさに「神」のような存在でした。
無口でつかみどころがなく、ときに残酷な彼の態度は、沈黙する神が信仰を試しているかのようです。

キャリーはそれでも信じ続け、愛されようと努力し、苦悩します。
それは救いを願う者の姿そのものであり、恋愛の領域を超えて「信仰の営み」と言ってもよいでしょう。


「ロマンティックラブは人生のある局面でのみ有効」説

『And Just Like That…』でキャリーは、ふとこう漏らします。

「もしかしたら、ビッグは運命の人じゃなかったのかもしれない。」

これは彼女の“信仰の揺らぎ”です。
若さの中でこそ成立していたロマンティックラブの幻想が、喪失や死を経験することで問い直される──これは宗教的啓示のようでもあります。

まさに、「ある人生段階では有効だが、普遍ではない信仰」としてのロマンティックラブが終焉を迎える瞬間です。


終わりに|恋とは救済である

キャリーの恋愛遍歴は、たんなる恋多き女性の物語ではありません。
それは、自分が“選ばれし者”であるかどうかを問う、魂の物語であり、救いの物語です。

近代という神なき世界に生きる私たちは、どこかで「愛こそが自分を救ってくれる」という幻想を抱かざるを得ない。
キャリーはその幻想を、最後まで信じ、問い、揺らぎながらも、自分の人生を意味づけようとしました。

私たちはキャリーの姿に、「神のいない時代における信仰の形」を見ているのかもしれません。

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