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はじめに
本稿は、日本の中央官庁、いわゆる霞が関のキャリア官僚という
日本社会における知的エリートの代表格が、
なぜ政策立案・実行において誤り続けることが可能だったのかを、
構造的に分析する記事である。
ここで扱うのは、個々の官僚の能力や勤勉さ、誠実さではない。
むしろ逆だ。
高度な選抜を経て集められた知的エリート集団であるにもかかわらず、
なぜ政策上の誤りが長期にわたって修正されず、
場合によっては誤謬としてすら確定しなかったのか。
本稿の関心は、
その理由を人格や倫理に還元することではなく、
知識が更新されず、誤りが訂正されにくい制度と文化の構造に求める点にある。
知的エリートが誤ること自体は普通
まず確認しておくべきことがある。
知的エリートであっても、誤る。
これは例外ではない。
学問、政策、技術、経営――
どの分野でも、知的水準の高い人々が誤った判断を下すことは普通に起きる。
重要なのは、
誤った後に何が起きるか、或いは起こすか…である。
誤りが誤りとして認識されるのか
修正が試みられるのか
それとも、誤りのまま前提として温存されるのか
問題の本質は3番めが長期間成立してしまう点にある。
外部判定のない知識は更新されない
知識は、個人の努力だけでは更新されない。
更新を強制するのは、外部からの検証圧力である。
医療、法学、工学といった分野では、
学会
ガイドライン
国際比較
公開された批判と反証
といった仕組みを通じて、
知識や判断枠組みが常に外部に晒されている。
そのため、かつて正しいと考えられていた理解でも、
新しい知見によって否定されれば、
時間とともに周縁化されていく。
医療における「がん告知」が示すもの
医療の世界では、かつて
「がん病名は患者に告知すべきではない」
という考え方が、ある時まで一定の支持を持っていた。
その後、告知派と非告知派が併存する時期を経て、
現在では病名告知と患者の自己決定を尊重する考え方が、
国際的な標準となっている。
この変化は、
医師の倫理観が突然変わったからではない。
治療方針や判断枠組みが、
学会で議論され
国際的に比較され
ガイドラインとして明文化され
公開の場で検証され続けた
結果として生じたものである。
重要なのは、医療の現場では
知識を更新しない者が、構造的に生き残れなかった
という点だ。
世界の政策官僚が行っていること
世界の政策官僚や政策コミュニティでは、
査読論文に限らず、
政策レポート
ディスカッションペーパー
ポジションペーパー
国際機関向け報告書
といった形で、
自らの分析や仮説を世界に向けて公開し、
その当否を外部に委ねることが一般的に行われている。
ここで重要なのは形式ではない。
公開性と外部検証性である。
誤った理解は、
批判や反証を通じて可視化され、
修正を迫られる。
この仕組みが、
知的水準の維持と更新を支えている。
日本の中央官庁官僚のアウトプット構造
一方、日本の中央官庁官僚の主要なアウトプットは、
省内向け資料
国内向け審議会資料
白書やガイドライン
国会対応文書
といった、国内・組織内で完結する文書である。
これらは政策実務として不可欠だが、
次の特徴を併せ持つ。
世界に向けた発信ではない
外部からの当否判定を前提としていない
理解が誤っていても、即座に検証されない
結果として、
知識を外部に晒さなくても、
制度上は合理的にキャリアが成立する
構造が生まれる。
なぜ誤りが「誤謬」として確定しないのか
ここで、問いは一段深まる。
なぜ、誤りは単なる失敗ではなく、
誤謬として確定しなかったのか。
理由は明確だ。
誤りを確定させる外部審査が弱い
国際的な批判が制度的に組み込まれていない
誤った理解でも、省内論理として完結してしまう
その結果、
誤りは「見解の違い」に留まり
検証は先送りされ
修正されないまま時間が経過する
この構造のもとでは、
誤謬を誤謬として認める必然性が生じにくい。
マクロ経済学は、代表的な例にすぎない
マクロ経済学は、
この構造が最も露出しやすい分野である。
結果が集計データとして現れる
国際比較が容易
誤りが長期停滞として可視化される
しかし、日本の経済政策は30年も更新されなかった。
こうした例はマクロ経済学に限られない。
財政、産業政策、農政、社会保障、エネルギー、規制行政――
所管分野を問わず、
政策判断の基礎となる日本の中央官庁キャリアの知識が、
世界の政策コミュニティーで検証されにくい
という共通構造が2本の官僚機構には明らかに存在する。
推察として成り立つ結論
以上を踏まえると、次の推察が成り立つ。
霞が関のキャリア官僚という知的エリート集団の中には、
国家総合職試験合格時点の知識を大きく更新しないまま
所管分野の政策判断に関与し
その理解が外部から体系的に検証されることなく
キャリアを終える人が存在する
その蓋然性は、
個人の資質とは無関係に、
制度と文化から自然に導かれる。
これは断定ではない。
しかし、制度上、それを否定する根拠も見当たらない。
おわりに
本稿は、官僚を非難するための記事ではない。
また、特定の政策失敗を糾弾するものでもない。
扱っているのは、
知的エリートであっても誤り続けることが可能になる構造である。
誤りそのものよりも深刻なのは、
誤りが誤謬として確定しない状態が長期化することだ。
知識は、外部に晒され、批判に委ねられて初めて更新される。
この当たり前の原理が、
政策形成の中核で十分に機能していたのか。
それを問うことこそが、
霞が関という知的エリート集団を
正しく理解するための出発点なのだと思う。
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