釣り・ゴルフ・将棋から考える偶然と必然──趣味の幸福論

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序章:なぜ人は趣味で苦しむのか

趣味は本来、自由で楽しい行為のはずだ。
それなのに、釣りで釣れないと不機嫌になったり、
ゴルフで一打のミスを引きずったり、
将棋で一手の判断ミスを長く悔やむ人がいる。

私はよく思う。
なぜ、楽しむための趣味で人はここまで苦しむのだろうか。
その理由のひとつは、プレイヤーのゲーム認識と実際の構造がずれていることにあるのではないか。
つまり、「必然で動くゲーム」だと思って釣りを始めた人は思い通りにならず苦しみ、
「偶然の流れを楽しむ遊び」だと思ってゴルフを始めた人は、練習する必然に気づかないので上達せず退屈してしまうのだ。


第1章:趣味とプレイヤーの間には相性がある

どんな趣味も、一つのゲームとして考えることができる。
それぞれのゲームには固有の構造があり、偶然と必然の比率が違う。
プレイヤーのゲーム構造に対する認識が、実際のゲームの構造と一致しているとき、
人はもっとも自然にそのゲームをエンジョイできるのではないかと思う。
つまり、相性が良い――と言えるのだと思う。

ただし、そこで得られるのはあくまで“軽やかな楽しさ”だ。
より深い歓びは、ゲームがもつ偶然性の壁を、プレイヤー自身の創意と努力で乗り越え、
自分の中に描いた必然を貫き通したときに訪れるように思う。
それは多くの時間や集中力を奪うが、その瞬間に感じる達成感は、
偶然の中で自らの必然を証明した者だけが知る、特別なものかもしれない。


第2章:釣り――偶然の世界に生きるゲーム

釣りというのは、自然という膨大な変数の中で行うゲームだ。
潮、風、水温、光、魚の気分――どれも人間の意志では動かせない。

だから私は、釣りは「努力すれば必ず結果が出る」という必然がかなり少ないゲームだと感じている。
その日の釣果は、技術よりも偶然の重なり方に大きく左右される。

もちろん技術を磨けば、偶然を活かせる場面は増える。
けれど「技術があれば釣れる」と信じてしまう人ほど、
思い通りにならない現実に苦しむことが多いように思う。

釣りに相性が良いのは、
「今日は釣れなくても、それも自然」と笑える人だろう。
釣れたときは自分の力ではなく、
自然と呼吸が合った瞬間の贈りものとして受け止められる。

釣りは、どうにもならない偶然を受け入れる練習のようなものだと、私は思う。


第3章:ゴルフ――必然を信じる人が報われるゲーム

ゴルフというのは、釣りとは対照的な構造をもっている。
練習すればスイングは安定し、技術は裏切らない。
風や芝の状態など外的要因はあるが、努力が結果に反映されやすいゲームだ。

だから「必然を信じる人」――努力すれば報われると考える人――と相性が良いと思う。
上達が実感できることが喜びになり、技術の積み重ねがそのまま幸福につながる。

しかし、ゴルフにも偶然の介入はある。
どれほど練習を重ねても、上には上がいる。
そして、実力が拮抗するコンペでは、勝敗を決するのは
風の揺らぎや芝目の微妙な変化、あるいは人間が故の心の揺れといった小さな偶然だったりする。

その瞬間、必然を信じる人ほど戸惑う。
「なぜあの瞬間にパットを外すイメージが湧いてしまったのか」と偶然の介入を自分のせいにして、
努力で埋められないわずかな差に苦しむことがあるのだ。

ゴルフは、必然の世界で努力が報われるゲームだが、
上達しても必ず偶然が顔を出す――私はそう感じている。


第4章:将棋――必然の極みにも残る人間的な偶然

将棋というのは、完全情報のもとで理性がぶつかり合うゲームだ。
そこにはサイコロも、風も、魚の気分も存在しない。
偶然は排除され、知と計算だけが支配する。

しかし、実力が伯仲した瞬間、
必然の流れの中に人間の揺らぎが入り込み、勝敗を分けることがある。
同じ局面で異なる一手を選ぶ――その判断の“微妙なゆらぎ”こそ、
必然の世界に残された最後の偶然のように思う。

この人間的なノイズを偶然による「運」と見るか、「自分の限界」と見るか。
その受け止め方で、将棋は修行にもなれば、苦行にもなるのだろう。


第5章:相性――ゲーム構造と認識の組み合わせで幸福は決まる

プレイヤーの認識相性が良いゲーム相性が悪いゲーム
必然を信じるタイプゴルフ、将棋、アーチェリー、料理、楽器演奏釣り、麻雀、ポーカー、登山、写真
偶然を受け入れるタイプ釣り、写真、ポーカー、登山、園芸ゴルフ、将棋、競技的な場面全般

釣りのように偶然に左右されるゲームでは、
必然を信じすぎる人は「努力が報われない」と感じて不幸になる傾向がある。
一方、ゴルフのように必然が支配するゲームでは、
必然に頓着しない人が取り組むと、練習する必然に気づかないので上達せず退屈する。

私が思うに、理想的なのは、ゲームの構造に合わせて心の重心を変えられるプレイヤーだ。
偶然の中にいるときは偶然に寛容であり、
必然が働く場面では真剣に考え、練習を惜しまない。
この柔軟さが、どんな趣味をしても楽しめる人の条件ではないだろうか。


終章:偶然と必然のちょうどいい距離

釣りの世界では、偶然を受け入れられない人は苦しむ。
けれど、偶然を理解したうえで釣りに向き合えば、
一匹の魚との出会いが「自然との対話」になる。

ゴルフでは、必然の法則が努力に報いてくれる。
ただし、上には上がいること、そして伯仲する相手との勝負では、
やはり偶然が決定的な要素になりえる。

人はどんなに技術を磨いても、完全に世界を支配することはできない。
そしてどんなに世界に委ねても、まったく自分の影響がないわけでもない。

偶然の場ではおおらかに、
必然の場では真剣に。

そのどちらの中にも、必ずもう一方の要素が潜んでいる――
私はそう考えている。

人はその境目で、自分という存在の限界と可能性を知る。
そして、そこにこそ趣味を通して生きることの、
静かで深い味わいがあるのではないだろうか。


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