霞が関でマクロ経済学が誤読される蓋然性 ――国家総合職試験という制度からの推察

霞が関の国会議事堂を望むオフィスで、マクロ経済学の書籍を読みながら政策資料に向き合う中央官庁職員の姿
政策立案の現場で、マクロ経済学の理論と向き合う中央官庁職員の静かな一場面

Contents

はじめに

マクロ経済学は、日本語で書かれているがゆえに誤読されやすい学問である。
専門用語の多くは日常語と同じ語感をまといながら、実際には厳密な前提条件とモデルの上で定義されている。
そのため基礎的な訓練を経ずにテキストを読めば、「読めた」という感覚だけが先に立ち、学問としての理解に到達しないまま議論に参加できてしまう。

この特性を踏まえたとき、中央官庁における政策形成の現場で、マクロ経済学がどのように扱われているのかを、制度の側から検討する必要がある。


マクロ経済学は「日常語の延長」で誤読できてしまう

「需要」「供給」「景気」「成長」「均衡」。
これらは日常語としても使われる言葉である。
しかしマクロ経済学におけるそれらは、心理や印象を指す言葉ではない。
価格・所得・制度・制約条件の下で集計された行動を、特定のモデルの前提に基づいて扱う概念である。

統計学を学んでいない人が「自分の経験から見て統計学的に〜」と言ってしまう。
心理学を学んでいない人が「心理学的に考えるとさ…」と語る。
法律学を知らない人が「善意の第三者」を「当事者ではない善人」と理解する。
マクロ経済学でも、これらと同型の誤読は起こりうる。

重要なのは、マクロ経済学が高度な数学を用いるから難しいのではない、という点である。
定義と前提を誤ると、政策含意が容易に反転する
その意味で、マクロ経済学は本来、専門職的な学習を前提とする学問である。


専門職国家試験が設ける「最低限」

医師国家試験や司法試験は、合格後の研修と学習を前提とした制度として設計されている。
厚生労働省は医師国家試験を、臨床研修に進む前段階として、医師として必要な医学的知識および技能を確認する試験であると位置づけている。
法務省も司法試験を、法曹としての実務訓練を受けるに足る基礎的な知識と応用力を備えているかを判定する試験であるとしている。

これらの試験は「完全理解」を保証するものではない。
しかし同時に、次段階の専門教育に進ませても致命的な誤解を起こさないだけの最低限の概念理解を、国家が線引きしている。

その線を下回れば、そもそも次に進めない。
ここに、専門職国家試験の制度的特徴がある。


国家総合職試験は「採用試験」である

一方、一般に「キャリア官僚」と呼ばれる人々は、制度上は国家総合職試験の合格者である。
人事院は国家総合職試験を、政策の企画及び立案、または調査及び研究に関する事務を担う係員を採用するための試験であると明確に位置づけている。

この文言を素直に読めば、国家総合職試験は採用試験であり、採用後の学習の必要性や制度的意味については語っていない。
専門職国家試験のように、「どの概念を誤解していたら次に進めないか」という最低限線も示されていない。

ここが、決定的な分岐点である。


「採用試験」は学習インセンティブの山を一度終わらせる

採用試験という性質は、学習行動に強い影響を与える。
内定を得た学生が、その後の大学での学習意欲を低下させる現象は珍しくない。
内定前は学習が採用可否に直結するが、内定後は直結しない。
その結果、学習行動の分布が変わる。

国家総合職試験も同型である。
合格は採用に直結し、中央官庁に所属したという事実そのものが、その後のキャリア形成において強い意味を持つ。
この経歴が将来不利に作用する場面は、一般に想定しづらい。

その結果、試験合格時点で学習インセンティブの大きな山が一度終わる。
合格後に学習が行われる可能性はあるが、それは制度が強く誘発している行動ではない。


ここにマクロ経済学を重ねると何が起きるか

ここまでの要素を重ね合わせると、次の推察が成立する。

  • マクロ経済学は日常語の延長で誤読できてしまう学問である。

  • 誤読を避けるには、用語・概念・前提条件を体系的に学ぶ基礎訓練が必要である。

  • 国家総合職試験は「採用試験」であり、採用後にマクロ経済学の概念理解をどこまで担保するかを制度として定義していない。

  • さらに、合格が採用に直結することで、合格後の学習インセンティブは弱まりやすい。

この条件の下では、マクロ経済学について、学問として十分に習得する前の知識水準のまま、政策形成に関与する人が一定数生まれる蓋然性は高くなる。

ここで言う「一定数」とは、全体の話ではない。
学習を継続する人も存在する。
しかし制度が、専門職国家試験のように最低限線を明示し、学習を強制していない以上、理解水準の分布は広がりやすい。
分布が広がれば、浅い理解の層が生まれること自体は統計的に自然である。


結論

財務省・経済産業省・農林水産省を含む中央官庁の政策形成において、
マクロ経済学が十分に習得される前の知識レベルで国家運営が行われている可能性は、
制度設計と学習インセンティブの構造から見て、明確に推察が成立する。

それは誰かの能力や姿勢の問題ではない。
採用試験として設計された国家総合職制度と、誤読可能性の高いマクロ経済学が組み合わさったときに生じる、構造的帰結である。

この前提に立たない限り、
「なぜ同じ議論が繰り返されるのか」
「なぜ政策含意がすれ違い続けるのか」
という問いに、十分な説明を与えることは難しい。

次に問うべきは、
マクロ経済学の最低限の概念理解を、国家運営のどこで、誰が、どう担保するのか
という点である。


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