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1. キャリーの恋人である前に、“ビッグという人間”を見よ
『Sex and the City』という物語において、ジョン・ジェームズ・プレストン――通称“Mr. Big”は、しばしば“キャリー・ブラッドショーの恋の相手”として消費される。
だが本質的には、彼もまたニューヨークという都市の「生きた象徴」であり、愛と孤独に試された一人の現代男性であった。
本記事では、キャリーの視点からだけでは見えにくい“ビッグという人間の輪郭”を浮かび上がらせてみたい。彼がなぜキャリーとの関係において揺れ、逃げ、最後には戻ってきたのか――その鍵は、彼の過去、家庭、階層、そして沈黙の中にある。
2. 表面のMr. Big:成功と余裕に満ちた都市型エリート
初登場から一貫して、ビッグは「成功者」のイメージを纏っている。職業は明示されないが、金融・投資・企業買収(M&A)の世界で名を馳せた実業家であることが示唆されており、リムジンや高級レストラン、マンハッタンの高層アパートメントといった象徴的アイテムがその地位を物語る。
彼の話し方は静かで洗練され、感情の波を見せることは稀だ。むしろ常に一歩引いた目で周囲を観察し、すべてを“笑って済ます”余裕があるように見える。SATCの世界でビッグは、いわば「人生ゲームの勝者」として位置づけられている。
しかし、その余裕の裏側に、ビッグの本質が隠れている。彼が本当に手に入れたかったものは、果たしてキャリーが思い描いていた“運命の愛”だったのだろうか。
3. 内面のMr. Big:愛と親密さに不器用な孤独者
SATCシーズン1 第1話の終盤。キャリーはビッグに向かって問う。「あなたは本当の愛を知っているの?」
ビッグは一瞬だけ表情を曇らせ、そして言う――“abso-f***in’-lutely”。
この名シーンこそ、ビッグという人物の内面を最も鮮やかに映し出す瞬間である。彼は、かつて深く誰かを愛し、そしてその愛を失った男であることがこの一言に凝縮されている。そして、視聴者はこの瞬間から、キャリー同様に彼の内面に惹き込まれていく。
ビッグは人を愛する力を持っているが、それを表現することには極端に臆病だ。彼にとって「親密さ」とは、感情の暴露であり、自我の崩壊に等しい。だからこそ、キャリーが彼の母親に紹介されなかった(S2第18話)。
恋人を“家族の輪”に入れることは、彼にとって境界線を越える重大な意味を持つ。そしてビッグは、その一線を容易に越える男ではなかった。
この“親密さへの回避傾向”は、自由を愛する彼の性格と、過去の傷によって形成されたものであり、表面の余裕と内面の不安のコントラストが、彼という人物をよりリアルな存在にしている。
4. 家族関係に見る“線の引き方”
ビッグの「感情的な距離感」は、恋人との関係にとどまらない。
それは、家族との関係においても慎重で抑制的なあり方として描かれる。
シーズン2の最終話、キャリーはビッグが母親と一緒に教会に通うことを知り、同行を希望する。しかし、彼は彼女を母親に紹介しようとはしない。
キャリーはそれを「私はこの人の“私生活”には含まれていないのだ」と直感する。そしてそれは正しかった。
この行動は、単に「まだ早い」などという問題ではなく、ビッグにとって“家族”と“恋愛”は原則として交わらない領域であることを表している。
一方で、『And Just Like That…』ではビッグが父親と穏やかに電話を交わす場面が描かれる。
ここでも彼は、情熱的に父親と語るわけではなく、静かで端的な会話に留まる。
親を拒絶しているのではない。ただ、必要以上に親密さを求めず、「感情の共有」に踏み込まない。
このスタンスは、彼の恋愛観と完全に一致している。
人間関係における“核”を他者と共有しない。むしろ守る。
それが、ビッグの「強さ」であり「弱さ」でもある。
5. ナターシャとの結婚は“階層の接続”か?
SATCシーズン2の終盤、ビッグはキャリーと破局し、その直後にナターシャという20代後半の若く、端正で、上流階層に属する女性と電撃的に結婚する。
この結婚は、表面的には「安定した恋人関係への回帰」のように見える。だがその実、ビッグが“秩序ある社会的階層”との結合を求めた選択だった可能性がある。
ナターシャは“ベージュ一色”のインテリアに囲まれた日常を生きる。ファッションも発言も抑制されており、出自や教育水準も“典型的なネイティブニューヨーカーの上流女性”の型を踏襲している。
この構図を逆照射すれば、ビッグ自身は「ネイティブニューヨーカー」ではない可能性が高い。実際、シリーズ内で出身地は明言されておらず、彼は“ニューヨークに成功しに来た男”であって、“ニューヨークそのものに生まれた男”ではない。
キャリーがサブカル系でアッパーミドル未満の「アウトサイダー」であるのに対し、ナターシャは“ニューヨーク社会の公式な秩序”の側に立つ。
つまり、ナターシャとの結婚は「社会的承認」を手に入れるための試みだったのではないか。
キャリーとの恋愛があまりにも情緒的で不安定だったからこそ、ビッグはその反動として、“秩序と形式”に自分を組み込みたくなった。
しかし彼は、最終的にその世界になじめなかった。
それが、二度目の離婚へとつながっていく。
6. キャリーという“秩序外の女性”との再選択
キャリー・ブラッドショーは、ナターシャとは対極にある。
彼女は予測できず、しばしば感情的で、社会的枠組みにとらわれない自由な存在だ。
ビッグがキャリーに惹かれ続けたのは、ただの“情熱”や“性”ではない。
彼女がビッグの「内面に閉じ込められていた何か」を揺り動かす存在だったからだ。
キャリーは、文章を書くことで自分自身を外化できる「言語的自己反省能力」を持っている。
その内省の深さと、知性、そして混沌――これらは、沈黙と秩序で武装されたビッグにとって、最も苦手で、最も魅力的な要素だった。
最終的にビッグはキャリーとの結婚を選ぶが、その背後には、単なる恋愛成就ではないもっと深い決断がある。
「愛されることから逃げる人生を終わらせる」決断。
「秩序の中で安全に生きることより、不完全でも情熱的な関係を選ぶ」決断。
それは、キャリーの“ロマンティック・ラブ・イデオロギー”にビッグが屈した瞬間であり、同時に、彼自身の内なる殻を破った瞬間でもあった。
7. Mr. Bigとは何者だったのか
Mr. Big。彼は“名前のない男”として登場し、物語の最後にようやく「ジョン・プレストン」という本名を与えられる。
それはまるで、キャリーとの関係を通じてしか、彼自身が“固有名”を持ちえなかったことの象徴のようだ。
彼は多くの視聴者にとって、魅力的だが身勝手な男、“都合のいいタイミングで戻ってくる”愛の逃亡者として記憶されている。
しかし、その視点のまま彼を断じることは、彼の“人間的弱さ”を見落とすことになる。
ビッグは、成功していた。金も地位もあった。だが彼は、「人から真に愛されること」「愛されるに値すると信じること」に長く失敗してきた男だった。
彼が過去に「abso-f*in’-lutely」と語った“本当の愛”とは、誰だったのか――作中では一切語られない。
それゆえに、このセリフには永遠に開かれた空白**が存在する。
その空白が、彼という人物の全体像を常に不確定なものとして残し、同時に、視聴者に「共鳴」ではなく「想像」を求め続ける。
彼は冷たいわけではない。誠実さに欠けていたわけでもない。
ただ、誠実であることの形を知らなかった。
愛することより、“愛されることの正当性”に疑問を持ち続けていた。
キャリーは、その疑念を解きほぐす存在だった。
彼女は理想主義で、感情的で、非合理だったが、だからこそ、「本当の愛は理屈ではなく納得なのだ」と彼に気づかせる存在だった。
そして彼はついにその愛を選ぶ。
それはキャリーの勝利ではない。
それは、ビッグがようやく、「自分を愛されるに値する人間」として受け入れた瞬間だったのだ。
【あとがき】
Mr. Bigという人物を、“キャリーの恋人”としてではなく、一人の人間として見つめ直すことで、SATCという物語の深度もまた変わって見えてくる。
都市に生きるとはどういうことか。
自由と孤独の境界線とはどこにあるのか。
愛を選ぶとは、自分をどう肯定することなのか。
Mr. Bigは、それらの問いを静かに抱え続けたまま、都市のなかに溶け込むように歩いていた。
彼は不完全で、臆病で、それでも最後には――名前を持つ人間になった。
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