日本について語られるとき、よくふたつの立場が登場します。
ひとつは、「この国は素晴らしい」という立場です。
もうひとつは、「この国はまだまだだ」という立場です。
一見すると、このふたつは対立しているように見えます。
前者は日本肯定派。
後者は日本批判派。
そう分類したくなります。
しかし、私はこの分け方はかなり粗いと思っています。
本当に見るべきなのは、その立場が、何に立脚しているのか…です。
「この国は素晴らしい」と言う人にも、いくつかのタイプがあります。
「この国はまだまだだ」と言う人にも、いくつかのタイプがあります。
同じ言葉を使っていても、立脚点がまったく違う場合があります。
逆に、正反対の言葉を使っていても、実は同じような自己都合から出ている場合もあります。
日本論を考えるときに重要なのは、発言の方向ではありません。
発言の立脚点です。
Contents
「この国は素晴らしい」派の第一類型――生活圏肯定型
「この国は素晴らしい」の立脚点のひとつは、
自分が生まれ育った国が日本であり、
日常生活の基準も日本にあるから…という立脚点です。
電車はだいたい時間通りに来る。
街は比較的きれいである。
治安も良い。
店員の対応も丁寧である。
医療もそれなりに受けられる。
行政も、文句を言いながらも基本的には動いている。
そういう生活をしていると、自分は特に大きな問題を抱えていない。その状態をもって「日本は良い国だ」と感じるのは自然です。
それはとても自然です。
自分が暮らしている社会に安心感や愛着を持つことは、むしろ健全なことです。
もしかしたら小さな差別や偏見を受ける立場かもしれないけれど、
それは他の人達だってだいたい似たようなものだと解釈している。
多くの人は、自分の生活圏を基準にものを考えるものです。
しかし、そのまま大きな日本論を語り始めると、話は弱くなります。
「この国は素晴らしい」と言っているようで、実際には「自分は特に不満がない」と言っているだけかもしれないからです。
亜類型――生まれた国を好もうとする気持ち
この生活圏肯定型には、さらにひとつの亜類型があります。
それは、生まれた地域や国を好もうとする気持ちから、日本を良い国だと感じている場合です。
人間は、自分が生まれ育った土地や文化に愛着を持つものです。
丁度、子供が親を自然に尊敬するように。
自分の家族がある年齢まではもっとも安らげる場所であるように。
その感情は自然です。
むしろ、共同体を支える大切な感情でもあります。
自分の生活圏で決定的な差別や偏見を受けていない。
不当な不利益を受けていない。
生まれ育った地域に愛着がある。
慣れ親しんだ言葉、食べ物、季節感、人間関係、社会の秩序がある。
だから、日本は良い国だと感じる。
これは、客観的な国際比較というより、愛着としての日本肯定です。
それは悪いことではありません。
ただし、愛着と評価は分けて考える必要があります。
日本を好きであることと、日本を客観的に評価することは違います。
日本に愛着があるから良い国だと感じているのか。
それとも、世界と比較した結果として良い国だと判断しているのか。
ここを分けないと、感情としての愛国心と、評価としての日本論が混ざってしまいます。
「この国は素晴らしい」派の第二類型――国際比較型
一方で、世界情勢や国際比較をある程度見たうえで、日本はかなり良い国だと考える人たちもいます。
この場合の「この国は素晴らしい」は、単なる慣れや郷土愛ではありません。
比較に基づく評価です。
治安。
公衆衛生。
医療へのアクセス。
教育水準。
インフラ。
食の安全。
行政の安定性。
社会全体の秩序。
公共空間の清潔さ。
他人に対する最低限の配慮。
こうしたものを世界の中で比較したとき、日本は相当高い水準にあると考える。
その結果として、「この国は素晴らしい」と言う。
ここで大切なのは、「世界を見たうえで」という言葉の意味です。
これは、必ずしも海外生活経験を意味しません。
もちろん、海外に住んだ経験はひとつの材料にはなります。
しかし、海外生活経験があるからといって、その人が本当に国際比較をしているとは限りません。
海外に住んでいても、自分の生活圏内で起きた出来事だけから判断しているなら、それは比較としてはかなり弱い。
自分が住んだ街、自分が接した職場、自分が出会った人たち、自分が受けたサービス。
それらは大切な経験ではありますが、国全体を評価するにはサンプルが狭すぎます。
逆に、海外生活経験がなくても、客観的な資料や統計や制度比較を見る目があれば、日本を世界の中に位置づけて考えることはできます。日本を良い国・まだまだの国と判断することは、他国との比較から切り離しては不可能だからです。
海外経験は、あくまで材料のひとつです。
それ自体が比較能力を保証するわけではありません。
旅行記や駐在体験や留学体験は、濃い経験ではあります。
しかし、それはその人の経験であって、必ずしも社会全体の比較ではありません。
本当に重要なのは、海外に住んだことがあるかどうかではありません。
比較軸を持っているかどうかです。
「この国はまだまだだ」派の第一類型――個人的不満の外部化型
次に、「この国はまだまだだ」と言う人たちについて考えます。
この中には、自分の個人的な不満を、社会批判として外部化している人たちがいます。
自分が評価されない。
自分が報われない。
自分が生きづらい。
自分の意見が通らない。
自分の理想と現実が違う。
そうした不満は、本人にとっては切実です。
しかし、それをそのまま「この国は未成熟だ」「この国は遅れている」「この国は人権意識が低い」と語り始めると、話はずれてきます。
自分の不満が、すべて社会の欠陥から来ているとは限りません。
個人の能力、選択、環境、運、不運、人間関係、努力の方向性など、原因はいくらでもあります。
もしかすると、その不満は、他国に行くともっと大きくなる種類かもしれません。
もちろん、日本の社会の側に問題がある場合もあります。
しかし、個人的な不満と社会構造の問題は、本来は丁寧に分けて考えるべきものです。
ところが、そこを分けずに、自分の不満をそのまま国家批判や社会批判に変換する人がいます。
このタイプの「この国はまだまだだ」は、聞こえは立派です。
社会正義や人権や成熟社会という言葉を伴うこともあります。
しかし、よく聞くと主語が大きい。
「こんなに困っている人が大勢いる」というような表現もよく使う。
こうした表現で、自分の問題を、国の問題として語っているだけの場合があります。
この場合の批判は、社会分析というより、自己弁護に近いことがあります。
亜類型――嫌悪感の知的表現としての日本批判
この個人的不満の外部化型には、さらにひとつの亜類型があります。
それは、日本への嫌悪感を、社会批判の形で表現している場合です。
「この国はまだまだだ」と言っている。
しかし、その根底にあるのは、実は分析というより嫌悪に近い感情である。
もちろん、本人はそれを単なる嫌悪とは思っていないかもしれません。
社会批判であり、正義であり、問題提起であると考えているかもしれません。
しかし、よく見ると、「この国が嫌いだ」という感情が、「この国は未成熟だ」という表現に変換されているだけの場合があります。
この国では自分が報われない。
この国では自分が理解されない。
この国では自分の理想が通らない。
だから、この国はだめだ。
そういう構造です。
これは、社会分析ではありません。
感情の外部化です。
日本を嫌いであること自体は、個人の感情としてはあり得ます。
しかし、その嫌悪をそのまま国家評価のように語ると、話は濁ります。
日本が嫌いだからまだまだだと言っているのか。
具体的な制度や社会構造を見て、まだまだだと言っているのか。
ここを分けないと、日本論は感情論になります。
「この国はまだまだだ」派の第二類型――歴史認識型
一方で、大東亜戦争を日本が犯した大きな過ちと捉え、その歴史認識から「この国はまだまだだ」と考える人たちもいます。
この立場の人たちは、現在の日本だけを見ているのではありません。
近代日本の歩み、戦争、敗戦、戦後体制、国家と国民の関係を見ています。
大東亜戦争を、まるで日本人の原罪のように捉える立場です。
日本は戦後に豊かになった。
生活水準も上がった。
平和も維持してきた。
しかし、原罪は消えない。
あの戦争をどう捉えるのか。
国家として原罪にどう向き合うのか。
その問題を、十分に処理できていない。
だから、この国はまだまだだと考える。
この立場は、単なる個人的な不満とは違います。
ある種の歴史認識を出発点にしているからです。
大東亜戦争をめぐる評価は一枚岩ではありません。
当時の国際情勢、植民地主義、欧米列強、アジア、軍部、政治、エネルギー、メディア論調、国民感情など、複雑な要素が絡んでいます。
にもかかわらず、戦前の日本を軍国主義としてすべて悪と捉え、戦後の日本を常に未成熟と決めつけるなら、それはそれで単純化です。
しかし、少なくともこのタイプの「この国はまだまだだ」は、個人的な不満を国家批判にすり替えているだけではありません。
歴史に対する認識が立脚点です。
同じ「この国はまだまだだ」という言葉でも、そこにはかなり大きな違いがあります。
「この国はまだまだだ」派の第三類型――向上心演出型
もうひとつ、「この国はまだまだだ」と言う人たちの中には、少し違った類型があります。
それは、向上心や正義感を演出するために、「この国はまだまだだ」と言う人たちです。
このタイプの人たちは、必ずしも具体的な不満を抱えているわけではありません。
また、大東亜戦争や近代日本の歴史を深く考えた結果として、日本を批判しているとも限りません。
むしろ、「日本は素晴らしい」などと安易に言わない自分を見せたい。
「世界水準を知っている私」を見せたい。
「より高邁な精神性を追いかけているオレ」を見せたい。
そういう自己演出として、「この国はまだまだだ」という立場を取る人たちです。
この立場は、ある種のファッションに近い。
これをファッションと呼ぶとファッション界隈に叱られそうなので、もう少し正確に言えば、立場の装いです。
やや戯画的に立場の装いを表現すれば、こういうことです。
「日本は素晴らしい」などと言って満足している人間は、ぬるま湯に浸かって餌を与えられている飼い犬である。
それに対して、自分はより高みを目指す狼である。
そんな自己像を外部に発信しようとしている。
もちろん、向上心そのものは悪いものではありません。
国をより良くしたいという気持ちも、正義を追いかける姿勢も、本来は大切なものです。
しかし、問題は、その批判が本当に現実ベースなのかです。
具体的にどの制度が問題なのか。
どの国と比較して、どの点が遅れているのか。
その改善にはどのようなコストや副作用があるのか。
そこまで考えずに、「この国はまだまだだ」と言うだけなら、それは分析ではありません。
それは、自分を格好よく見せるための姿勢です。
このタイプの批判は、一見すると前向きに見えます。
現状に満足せず、より良い社会を求めているように見えるからです。
しかし、実際には、現実を改善するための批判ではなく、自分を高く見せるための批判になっていることがあります。
「日本を褒める人間は現状追認である」
「日本を批判する自分は、より高い理想を見ている」
この構図を作ることで、自分の知性や精神性を演出している。
この場合の「この国はまだまだだ」は、社会分析というより、自己演出です。
個人的不満の外部化とも違う。
歴史認識に基づく批判とも違う。
向上心や正義感をまとった、格好つけとしての日本批判です。
職業言説人は、さらに話を見えにくくする
ここからは、さらに現実を見えにくくして、ハナシをややこしくする人達について述べます。
実際の言論空間を非常に見えにくくしているのは、政治家、評論家、学者、ジャーナリスト、活動家、インフルエンサーなどの職業言説人です。
彼らは、必ずしも内心の信条を立脚点として発言しているわけではありません。
言論空間における自分の商品価値を考えながら発言しています。
「日本は素晴らしい」と言うことで支持を集める人がいます。
「日本はまだまだだ」と言うことで支持を集める人もいます。
保守派として売るなら、日本を肯定する言葉が必要になります。
リベラル派として売るなら、日本の問題点を指摘する言葉が必要になります。
もちろん、すべてが商売だと言うつもりはありません。
本当にそう信じている人もいるでしょう。
しかし、職業として言論を扱う人たちは、自分の立場そのものが商品になります。
一度ある立場で支持者を得ると、そこから簡単には動けなくなります。
本当は日本の良さも分かっているが、職業上「日本はまだまだだ」と言い続ける人がいるかもしれない。
本当は日本の問題点も分かっているが、職業上「日本は素晴らしい」と言い続ける人がいるかもしれない。
言説人にとって、立場の一貫性は信用であり、商品価値でもあります。
だから、認識が変わっても、すぐには言葉を変えられない。
こうなると、言論空間は真実を探す場所というより、立場を売る場所になります。
そして一般の読者や視聴者は、その発言が本人の本心なのか、思考の結果なのか、商売上のポジションなのか、見分けにくくなります。
ひとつの判定モデル――主観的データと客観的データを分けて見る
ここで、日本が「良い国」なのか、「まだまだの国」なのかを考えるひとつのモデルを提示してみたいと思います。
もちろん、これは唯一絶対の見方ではありません。私、理屈コネ太郎だったらこうする…という話です。
国家の良し悪しをひとつの指標で判定することはできません。
どの指標を重視するかによって、結論はかなり変わります。
それでも、ひとつの整理として有効なのは、一定以上に信頼できる一般に公表された資料に基づき考察することです。そして、その資料が主観を計測しているのか、客観的事実を計測しているのかを明確に分けて捉えることです。
主観的データとは、幸福度、生活満足度、自分の人生への評価などです。
これは、国民が自分の暮らしをどう感じているかを示します。
一方、客観的データとは、寿命、医療、治安、教育、インフラ、所得、社会制度などです。
これは、その国で生きるための条件がどの程度整っているかを示します。
このふたつを分けて見ると、日本はかなり興味深い国です。
幸福度や生活満足度のような主観的データでは、残念ながら日本は世界最上位ではありません。
むしろ、先進国の中では低めに出ることが多い。
つまり、日本人自身は、自分たちの社会をそれほど高く評価していない。
ところが、寿命、医療、治安、教育、インフラ、社会の安定性といった客観的データで見ると、日本は世界最上位層に入ります。
総合指標では概ね世界10位台から20位台に入り、特に健康や安全の分野では世界最高水準です。
このモデルで見るなら、日本はこう言えます。
日本は、主観的にはあまり幸福を実感しにくい国である。
しかし、客観的な生活条件では、世界でもかなり恵まれた国である。
つまり、日本は「国民が思っているほど悪い国ではない」。
むしろ、客観的に見れば、かなり良い国です。
ただし、ここで注意が必要です。
客観的に良い国であることと、国民が幸福を実感していることは同じではありません。
長寿で、治安がよく、医療が整い、教育水準が高く、インフラが安定していても、人々が孤独で、不安で、将来に希望を持ちにくいなら、その国にはやはり課題があります。
だから、このモデルから導ける結論は、単純な「日本は素晴らしい」でも、単純な「日本はまだまだだ」でもありません。
より正確には、こうです。
日本は、客観的な生活条件においては世界最上位層の良い国である。
しかし、主観的幸福感や社会的つながりの面では、まだ課題を抱えている国である。
これは、日本を称賛するためのモデルでも、日本を批判するためのモデルでもありません。
日本を雑に褒めないためのモデルであり、日本を雑に貶さないためのモデルです。
「この国は素晴らしい」と言うなら、どの客観指標に基づいてそう言うのか。
「この国はまだまだだ」と言うなら、どの主観指標や社会的課題を見てそう言うのか。
そこを分けて考えるだけで、日本論はかなり整理されます。
日本論を見るときに必要なこと
日本について語る言葉は、表面だけでは判断できません。
「この国は素晴らしい」と言っているからといって、その人が深く日本を理解しているとは限りません。
単に日本しか知らないだけかもしれません。
あるいは、生まれた国への愛着を語っているだけかもしれません。
「この国はまだまだだ」と言っているからといって、その人が知的で誠実な批判者であるとも限りません。
単に自分の不満を社会に投影しているだけかもしれません。
あるいは、日本への嫌悪感を、社会批判の形で表現しているだけかもしれません。
逆に、「この国は素晴らしい」と言う人の中には、世界情勢や国際比較を見たうえで、かなり冷静にそう判断している人もいます。
「この国はまだまだだ」と言う人の中には、戦後の歴史認識に基づいてそう考えている人もいます。
さらに、政治家や評論家のような職業言説人の場合は、その発言が本心なのか、商品上のポジションなのかも考える必要があります。
つまり、日本論を見るときに重要なのは、称賛か批判かではありません。
それは、生活圏の快適さから来る称賛なのか。
生まれた国への愛着なのか。
国際比較に基づく評価なのか。
個人的不満の外部化なのか。
日本への嫌悪感の知的表現なのか。
歴史認識に基づく批判なのか。
向上心や正義感をまとった自己演出なのか。
職業上のポジショントークなのか。
ここを見分けることです。
「日本を褒める人」と「日本を批判する人」で分けない
日本についての言説を、「日本を褒める人」と「日本を批判する人」で分けてしまうと、重要な何かを見落とします。
「日本を褒める人は愛国者」
「日本を批判する人は反日」
こういう分類は分かりやすい。
しかし、分かりやすいだけです。
逆に、
「日本を褒める人は無知」
「日本を批判する人は知的」
という分類もあります。
これも同じくらい雑です。
重要なのは、発言の方向ではありません。
発言の出どころです。その主張の立脚点がどれほどフェアかつ強固か…ということです。
日本を褒めている人が、何を根拠に褒めているのか。
日本を批判している人が、何を根拠に批判しているのか。
そこを見ないと、日本論はすぐに粗雑になります。
この国しか知らない称賛なのか。
生まれた国を好もうとする愛着なのか。
世界との比較を踏まえた称賛なのか。
個人的な不満の外部化なのか。
日本への嫌悪感の表現なのか。
大東亜戦争をめぐる歴史認識から来る批判なのか。
向上心や正義感をまとった自己演出なのか。
それとも、職業言説人としての売り物なのか。
「この国は素晴らしい」
「この国はまだまだだ」
このふたつの言葉の対立だけを見ていても、あまり意味はありません。
本当に見るべきなのは、その言葉の背後にある認識の質です。
結論
私は、「この国は素晴らしい」と言うこと自体を否定するつもりはありません。
また、「この国はまだまだだ」と言うこと自体を否定するつもりもありません。
問題は、その言葉の立脚点がどの程度フェアかつ強固か…です。
日本しか知らない人の称賛は、郷土愛としては自然でも、日本論としては弱い。
生まれた国への愛着としての称賛は、人間の感情として自然でも、客観的評価とは別です。
世界を比較する目を持つ人の称賛は、単なる愛国心ではなく、相対評価として意味を持ちます。
個人的な不満を外部化した批判は、聞こえは立派でも、社会分析としては弱い。
日本への嫌悪感を社会批判の形で語る場合も、分析と感情を分けて見る必要があります。
歴史認識に基づく批判は、少なくとも単なる不満の投影とは違う重みを持ちます。
向上心や正義感をまとった批判は、一見前向きに見えても、自己演出である場合があります。
そして、職業言説人の言葉は、その人の信念だけでなく、言論空間における商品価値とも結びついています。
だから、日本を語る言葉を聞くときには、まず分類する必要があります。
称賛なのか批判なのかではない。
それは、どこから出てきた言葉なのか。
ここを見ないと、日本についてまともに考えることはできません。
「この国は素晴らしい」
「この国はまだまだだ」
このふたつの言葉は、対立しているようでいて、実はどちらも表面にすぎません。
問うべきなのは、どちらの言葉を選ぶかではありません。
その言葉を発している人が、何を見ているのか。
何を見ていないのか。
何を知っているのか。
何を知らないのか。
何を好んでいるのか。
何を嫌っているのか。
何を狙っているのか。
そして、その言葉によって何を得ているのか。
日本論の本当の入口は、そこにあるのだと思います。