日本の独自性を探る ☆ 水田稲作と無常観、民のために祈る天皇

人々が土地をならし、畦を築き、水路を通す。そして、農作業と手入れを重ねながら、次の世代へと田を受け渡す。日本の水田稲作は、労働と技術、地域の協力によって支えられてきました。

その積み重ねが、一度の災害で大きく損なわれることがあります。天災が脅かすのは、その年の作物と、次の作物を育てるための田や水路です。

このような暮らしに関わる豊穣への祈りを、天皇は祭祀の務めとして担ってきました。そこには、人々が働いた成果が収穫へと結びつき、日々の生活が穏やかに続くことへの願いを読み取れます。

暮らしが大きく揺らいでも、その実りと安寧を祈る存在は、皇統とともに続いている。

本記事では、この継続に、人々の心を支える意味を見いだします。その関係を考えるために、まず、天皇の祭祀と深く結びつく歴史的な生活基盤である水田稲作に注目します。

水田は、人々が造り、維持し続けるもの

水田稲作には、稲を育てる条件を人間が整える仕事が必要です。

土地を開き、田の表面を平らに整え、畦を築く。水を引き、必要な水をため、余分な水を流す。そのための水路や堰を設け、耕作を続けられる状態をつくります。日本列島の初期の水田稲作を伝える板付遺跡でも、水の出入りを調整する水路や堰、木杭で補強された畦が確認されています。

造った設備には、その後も手入れが必要です。畦を保ち、水路を補修し、水の流れを確かめる。田を耕し、稲を育てる仕事に、食料生産の条件を維持する仕事が重なっています。

さらに、水を誰が、いつ、どれだけ使うかを決める必要があります。農業用水の利用秩序は、長年の調整や、ときには水争いを通じて形づくられてきました。設備と、それを共同で使う取り決めが、一体となっているのです。

水田稲作は、人間の継続的な働きかけによって成立する営みです。

土地を整える土木の仕事、設備の維持管理、毎年の農作業、水と労働を分担する地域の協力。そのすべてが重なって、食料を生み出す仕組みが保たれます。

国立歴史民俗博物館は、考古学的な研究に基づき、九州北部での水田稲作の始まりを紀元前10世紀ごろと説明しています。田んぼの風景の背後には、長い時間にわたる人間の仕事があります。

災害が脅かす、何世代もの仕事

日本列島では、地震、台風、豪雨、火山噴火などによる災害が繰り返されてきました。

大雨で田に土砂が流れ込み、山が崩れて水路が損なわれる。地震によって田面に亀裂やずれが生じ、水を管理する設備が壊れる。2016年の熊本地震でも、農地の亀裂や沈下、用排水路などの農業用施設の損壊が発生しました。

水を引き、ため、排出する条件が損なわれれば、稲を育てる営み全体に影響が及びます。再び耕作するためには、田や水路を修復し、食料生産の基盤から立て直す仕事が必要になります。

災害は、収穫とともに、次の収穫を生み出す条件まで脅かします。

長い時間をかけて造り、手入れを続けてきたものが、一夜にして大きく損なわれる。そこには、何世代にもわたる仕事の蓄積と、暮らしの確かさを失う重みがあります。

人々は力を尽くして生活を築きます。それでも、その力を超える出来事に見舞われます。この記事で考える無常観には、こうした生活経験の切実さが重なっています。

無常を感じる暮らしと、実りへの祈り

仏教の「諸行無常」は、あらゆるものが移り変わることを説きます。日本の文学には、災害や社会の変動を、その無常の認識と結びつけて描く作品があります。

鴨長明が1212年に著した『方丈記』は、その代表です。大火、旋風、飢饉、地震などを通じて、人と住まいの安定が失われる様子を見つめています。

無常への感受性は、移ろうものをいとおしむ美意識にも関わっています。簡素で慎ましい美しさを重んじる「侘び」や、年月を経たものに趣を見いだす「寂び」にも、その感受性とのつながりがあります。

一方、日々の暮らしを営む人々には、働いた成果が実り、今年も家族が食べていけることへの願いがあります。

田や水路が保たれること。手間をかけた稲が育つこと。収穫まで無事にたどり着けること。

力を尽くして働き、その仕事が実を結ぶことを祈る。

水田稲作を歴史的な生活基盤として見ると、豊穣への祈りを、このように理解できます。五穀豊穣を願うことは、人々の日々の食事と、共同体の存続を願うことにつながります。

日本では、神々をまつる祭祀とともに、仏教の儀礼でも豊穣や平安が祈られてきました。移ろいを見つめる教えと、暮らしの安定を願う祈りは、同じ社会の中で重なってきたのです。

祭祀王として、民のために祈る天皇

祭祀とは、神々をまつり、祈りや感謝を捧げる儀礼のことです。

本記事でいう祭祀王とは、祭祀を担い、人々の豊かな実りと穏やかな暮らしを祈る務めを、その存在の中心に置く君主です。

民のために祈るという務めに、その地位が尊ばれる根拠を見いだす。ここでは、この祭祀王という視点から天皇を捉えます。

天皇が担う祭祀には、水田稲作との深い結びつきがあります。10世紀の法制書『延喜式』には、祈年祭、新嘗祭、風や水に関わる国家祭祀が記されています。國學院大學博物館は、これらを稲作に関わる祭祀として説明し、豊かな実りへの祈りを、生活の平安への祈りと結びつけています。

現在の宮中でも、祈年祭では穀物の豊かな実りを祈り、新嘗祭では新穀を神々に供えて収穫に感謝します。元始祭では、国家と国民の繁栄が祈られます。

即位に伴って一代に一度行われる大嘗祭も、新たな天皇が新穀を神々に供える祭祀です。神道史研究者の岡田莊司氏は、米とともに粟が供えられることにも注目し、そこに災害の多い列島で人々の食料と共同体を守ろうとする願いを読み取っています。

神々に供えられる作物には、土地を整え、水を管理し、育てた人々の仕事が結びついています。その収穫を喜び、次の実りを祈る務めは、この国で働き、暮らす人々の生活へと向かっています。

人々が暮らしを築き、天皇がその仕事の実りを祈る。その願いを担う地位として、祭祀王の意味が具体的になります。

民の竈|古代の記録が示す君主の務め

民の暮らしと天皇の務めを結ぶ考えは、古代の記録にも表れています。

その代表が、仁徳天皇の「民の竈」の伝承です。この話は、『古事記』と『日本書紀』の両方に記されています。

天皇が国を見渡すと、家々から炊事の煙が上がっていませんでした。人々が困窮していると考えた天皇は、税や労役の負担を免除します。その間、自らの宮殿が傷み、雨漏りするようになっても、修繕を控えたと語られています。

『日本書紀』では、やがて家々から煙が立つ様子を見て、天皇が自分も豊かになったと述べます。宮殿は傷んだままなのに、なぜ豊かになったと言うのか。皇后の問いに対して、天皇は次の考えを示します。

「君以百姓爲本」
「百姓富之則朕富也」

現代の言葉にすれば、「君主は民を根本とする」「民が豊かになれば、私も豊かになったのである」という意味です。

ここには、君主自身の豊かさを、民の暮らしによって測る基準があります。

この説話を、天皇という地位に求められる務めを示す記録として読むことができます。宮殿の修繕よりも民の生活の回復を優先する。そのような君主像が、古代の書物に書き込まれているのです。

『古事記』は712年に献上され、『日本書紀』は720年に完成したとされています。いずれも天皇の命による編纂を経て成立しました。王権に関わる側が編んだ8世紀初頭の記録に、民の暮らしを君主の務めの中心に据える考えが示されている。 ここに、この伝承を取り上げる意味があります。

田を整え、水路を維持し、稲を育てる。その仕事の先にあるのが、家々の竈で炊かれる日々の食事です。

豊穣への祈りと、「民の竈」が示す君主の務めには、共通する関心を読み取れます。

人々が食べていけること。その暮らしの回復と安定を、天皇という地位の大切な務めとすることです。

政治を担う者が替わっても、天皇を戴く

暮らしや風景が移ろうように、政治を担う者も替わります。日本では、政治の実権を持つ者と天皇との役割が分かれ、天皇を戴く時代が長く続きました。

日本史には、天皇や上皇が人事や政策を決め、国政を継続的に主導した時代があります。その後、武家政権が成立し、14世紀の建武の新政と南北朝の動乱を経て、天皇と武家の役割の違いが明確になっていきました。室町から江戸へと、国政運営を主として武家が担う時代が続きます。

この関係を理解するには、実権を持つ者にとっても、天皇を戴く意味があったことに注目する必要があります。

たとえば徳川家康は、朝廷から征夷大将軍に任じられ、1603年にはその謝意を表すために参内しています。朝廷から正式な地位を得ることは、自らの政権を、歴史ある秩序の中に位置づける意味を持ちました。

同時に、江戸幕府は「禁中並公家中諸法度」によって朝廷を統制しました。天皇を戴くことと、幕府が政治の主導権を確保することが、同じ仕組みの中で成り立っていたのです。

政治を動かす実力と、その政権の地位を認める歴史的な権威が、異なる場所に置かれていた。

こう捉えると、政治の担い手が替わっても天皇を戴き続ける仕組みが見えてきます。実権を担う者は、朝廷の権威に自らの地位を結びつけることができました。

天皇という地位には、民の暮らしに関わる祈りの務めと、政権を歴史ある秩序につなぐ働きが重なっています。この両面から、祭祀王としての尊さと、時の政権にとって天皇を戴く意味を考えることができます。

明治国家と、祭祀の制度の変化

明治憲法は、皇統の継承を国家の統治の根拠に位置づけました。天皇に統治権を帰属させ、その行使を憲法の規定に従わせるとともに、国務大臣の補佐と責任、帝国議会の役割を定めています。皇統の正統性を国家の中心に据え、そのもとで複数の機関が政治を担う構造でした。

また、1908年には皇室祭祀令が公布され、祭祀の制度も整えられました。近代国家の形成に合わせて、皇統の政治上の位置づけと、祭祀を行う制度が組み直されたのです。

皇室祭祀令は1947年5月2日限りで廃止され、その後も宮中祭祀は皇室の伝統として受け継がれています。法制度が変わる中で、天皇の地位と、祭祀を担う務めは、それぞれ新たな位置づけのもとで今日へと続いています。

皇統とともに受け継がれる、地位と務め

皇統とは、皇位を受け継ぐ家系のつながりです。その起源伝承は、紀元前660年に即位したとされる神武天皇へと遡ります。

祭祀の制度について見ると、大嘗祭は7世紀末に成立し、平安時代に基本的な形式が整えられ、その後の中断と再興を経て今日へと伝えられてきました。

ここには、二つの継承が重なっています。

豊かな実りと人々の安寧を祈る務めの継承。そして、その務めを担う地位を、同じ皇統に連なる人々が受け継ぐことです。

「万世一系」は、皇統が代々続くという理念を表します。代々の天皇が替わっても、その皇統に連なる人が皇位を継ぎ、受け継いだ務めを担います。

本記事でいう「不変」は、皇統が続き、天皇という存在がこの国にあり続けることです。

「民の竈」が示す、民の暮らしを重んじる規範。祭祀によって繰り返される、収穫と生活への祈り。それらを皇位を継ぐ者の務めとして受け止めるとき、皇統の長い継承が持つ意味は具体的になります。

古代の朝廷では、稲作の実りと人々の平安を祈る祭祀が整えられました。暮らしの形が変わった現代にも、天皇は皇統を受け継ぎ、人々の生活の安定を祈る務めを担っています。

そこに、人々の暮らしと、祈りを担う地位との、世代を超えた関係が見えてきます。

現代の暮らしへとつながる祈り

水田稲作を支える祈りを、人々の仕事が実を結び、日々の食事と暮らしが続くことへの願いとして捉えると、その意味は現代の生活にもつながります。

食料を得ること。住まいを保つこと。安全に働くこと。災害の後に生活を立て直すこと。生業や社会の仕組みが変わっても、人々の生活には、こうした願いがあります。

現在、日本国憲法は、天皇を日本国と日本国民統合の象徴とし、その地位が国民の総意に基づくと定めています。

また、天皇の務めについての理解には、国民の安寧を祈ることが明確に示されています。2016年8月8日のおことばでも、国民の安寧と幸せを祈ることが、大切にしてきた務めとして述べられました。

被災地への訪問にも、人々の暮らしへの関わりが表れています。東日本大震災に際して、宮内庁は、被災地を訪ねる意向を、人々の心の支えとなることへの願いと結びつけて説明しました。

暮らしの形が変わっても、その回復と安定を願う務めがある。

古代の記録に示された民の生活への関心と、現代に語られる国民のための祈りを、この務めのつながりとして読むことができます。

なぜ、その継続が心の拠り所になるのか

天皇を、民の暮らしを重んじ、その安寧を祈る務めの担い手として受け止める人々にとって、皇統の継承は、自分たちの生活を長い歴史につなぐものになります。

災害によって住まいや生産の基盤が損なわれたときにも、その暮らしのために祈る務めを、皇統に連なる人が担っている。そこには、先祖の時代から続く関係があります。

本記事では、民の暮らしと、祈りを担う地位と、皇統による継承の結びつきに、心の拠り所となる意味を見いだします。

世界には、君主が祭祀を担う伝統があります。中国の天壇でも、明・清の皇帝が天をまつり、豊かな収穫を祈りました。

本記事が日本の独自性として注目するのは、人々の継続的な仕事によって成り立つ水田稲作、その蓄積を脅かす災害、無常を感じ取る文化、民の厚生を重んじる規範、そして祭祀を担う皇統の長い継承が、一つの歴史の中で結びついてきたことです。

結び|暮らしが揺らいでも、続くつながり

人々が築いた暮らしは、一度の災害によって大きく損なわれることがあります。そのときにも、民の暮らしを重んじ、働いた成果が実を結ぶことを祈る務めは、皇統とともに受け継がれています。

暮らしが揺らいでも、その暮らしのために祈る存在とのつながりは続いている。

そのように天皇を受け止める人々にとって、この継続は心の拠り所になります。

無常にさらされる国で、人々の生活と、民のために祈る祭祀王とが、世代を超えて結びついている。その関係の長さと、そこに見いだされる安寧に、本記事は日本の独自性を見いだします。


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▶筆者紹介は『理屈コネ太郎の知ったか自慢|35歳で医師となり定年後は趣味と学びに邁進』からどうぞ。

作成者: 理屈コネ太郎

元消化器内視鏡医・産業医。現在は社会・人間行動・構造分析をテーマに執筆活動を行う。定年退職後はヨット・ボート・クルマなど趣味と構造研究の日々を過ごす。

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