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自分だったら「ここまでして生きたくない」
意識が朦朧とし、寝たきりの状態。排便や排尿も介助や看護に全面的に依存。
こうした超高齢者の姿を目にしたとき、多くの人は胸のうちでこう思うはずです。
「自分だったら、ここまでして長生きしたいとは思わない」
そう、他人や自分自身に対しては、ある段階を越えた延命には否定的になるのが人間の自然な感覚なのかもしれません。
でも、親のこととなると話は別
しかし、もしそれが「自分の親」だったら――
話はがらりと変わります。
● 親の死を想像したくない気持ち
多くの人は、たとえ親が「もう充分だ」と思える状態になっても、その死を想像したくないし、受け入れたくもない。
それは「延命の是非」の問題というよりも、家族としての情、そして喪失を拒む心情に根ざした反応でしょう。
家族愛とは、実はエゴと親和性が高い
ここでひとつ考えさせられるのは、その感情が「家族愛」なのか、それとも「エゴ」なのかという問いです。
けれども、こうも言えます。
「そもそも愛とは、エゴと非常に親和性の高い感情である」
そう考えれば、「親の死を受け入れられない心情」を家族愛と呼ぶことは、それほど間違っていないのかもしれません。
尊厳と延命の“トレードオフ”を考える時代に
日本はこれから、多死社会に本格的に突入します。
そして私たちは、「人間の尊厳」と「家族愛に基づく延命」のトレードオフをどう考えるかという問題に向き合わねばならなくなってきています。
人間としての尊厳とは何か
家族の「生きていてほしい」という願いの正体とは何か
そしてそれを誰が、どこで、どう決めるのか
もしかしたら、考えなくても済んでしまう未来?
とはいえ――
このままなんとかあと30年だけ持ちこたえれば、日本の多死社会は収束に向かいます。
そうなれば、尊厳と家族愛のトレードオフという難題も、考えないまま何となく乗り切れてしまうかもしれません。
それが「幸せ」なのか、「課題の先送り」なのかは、私たち一人一人の倫理に委ねられています。