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はじめに
私はまだ、魚を一尾も釣り上げたことがありません。
釣りを始めたばかりの完全な初心者です。
それでも今この「ゼロ地点」に立っているからこそ書けることがあると感じています。
釣りの経験談や大漁の記録ではなく、釣りを始めようとする人間の迷いや期待、そして自然との向き合い方を、誠実に言葉にしてみたいのです。
この記事は、同じようにセカンドライフを迎え、「魚臭くならない知的な釣り」を始めてみたいと考えている方への小さな伴走記録です。
セカンドライフと釣りの入口
仕事を終えて自由を得たとき、人は新しい時間の使い方を模索します。
旅行や趣味もよいのですが、私にとって釣りは「自然の中で自分と向き合える行為」として特別に映りました。
まだ何も釣っていない今も、ボートを走らせながら海を眺めるたびに、心は大きく動きます。
水面の下にはどんな地形が広がり、どんな魚たちが暮らしているのだろう――その想像だけで、十分に愉しい時間が生まれます。
釣りは静かで激しい知的ゲーム
外から見れば竿を持って静かに座っているだけ。
しかし内面では、水面下の地形や潮流を推測し、魚の行動を想像し、仮説を立てて試行錯誤しています。
静と動の同居こそ、釣りが知的な遊びである理由です。
スポーツのように汗を流す必要はありません。それでも頭と心は常に動き続けています。
魚との出会いを想像する
私はまだ魚を釣っていません。
けれど想像の中で、釣り上げた魚にこう語りかけています。
「ここで生きていたのか。痛い思いをさせて悪かったね。
今回は私に捕まったけれど、リリースして海に帰れる。
次は自然の捕食者から逃げ切るんだよ。」
魚にとっては迷惑かもしれません。
しかし人間にとっては、その出会いは一期一会。
釣果よりも、自然の中で生命と触れ合う体験こそが大切だと考えています。
リリースという選択肢
釣った魚を食べることは、もちろん一つの価値観です。
ですが私の志向は「リリース」。
自然界なら敗北は死を意味します。
けれど釣り人は「敗者が生き延びる例外」をつくることができます。
これは人間だけが持つ、自然との新しい関わり方の一形態だと思うのです。
リリースは魚を守るだけでなく、釣り人自身の心を整える行為でもあります。
セカンドライフ世代への提案
釣りは「大漁を誇る」必要はありません。
むしろセカンドライフを生きる私たちにふさわしいのは、結果よりも過程を楽しむ釣りです。
魚を食べる実益を求めなくても、観察や洞察、内省を通じて心を満たすことができます。
「魚臭くならない釣り」は、知的に、清潔に、自然とつながるセカンドライフの新しい形です。
おわりに
私はまだ魚を釣ったことがありません。
しかし、この「ゼロの地点」から見えてくる風景を言葉にしておきたいのです。
やがて最初の魚と出会うとき、この想いがどう変わるのか。
その過程をまた記録に残していこうと思います。
釣りは「外形的には静か、内面的には激しい」営み。
セカンドライフにこそ似合う、魚臭くならない知的な遊びとして、私は一歩を踏み出しました。