「常識を疑おう」「古い価値観を超えよう」「弱い立場の人の側に立とう」。
どこかで聞いたこうした言葉を、「私が思うに」「結局、本質はこうなんですよ」と、自分で考え抜いた結論のように語る人を考えてみます。
本人が示したいのは、「自分は、あなたより広い世界を知っている」という違いです。周囲から一歩抜きん出た自分を演じ、自分でも「イケてる」と感じたい。思想風味のカッコイイ命題を、自分の存在感や価値を示すために使うわけです。
気に入った服で自分を飾るように、気に入った命題で自分を飾る。
その中身より、それを語る自分のカッコよさが大切になると、疑問や反論への応じ方も変わっていきます。
カッコイイ命題を、自分の思想らしく語る
服を選ぶときには、「これを着たら、自分はどう見えるか」と考えます。デザイナーの試行錯誤や、仕立ての技術を詳しく知らなくても、気に入った服を選び、着こなしを楽しめます。
思想風味の言葉も、「これを言えば、ものがわかっている感じが出る」という基準で選べます。
誰が、どんな問題について、どう検討して述べた言葉なのか。そこは曖昧なまま、「これからの社会に必要なのは」と、自分の見識を披露する。
聞き覚えた命題に、自分で考え抜いたような口ぶりを添えるのです。
そうして得意げに語っているうちに、本人にも、その内容を十分に理解しているように感じられます。「この言葉を知っている」から「この問題をわかっている」へ、さらに「自分は周囲よりものがわかっている」へと、話が進んでいきます。
語るだけなら、知識も実績もいらない
服を着るために、その服を自分でデザインし、縫い上げる必要はありません。出来上がった命題を口にするのも同じです。その命題が成立するまでの検討を、自分で行わなくても語れます。
「誰も取り残さない」と口にするだけなら、支援制度を設計する知識も、支援を届けた実績も、そのための人員を集めた経験も不要です。
その善を実現することには高いハードルがあるのに、その善を語る人として登場するハードルは低い。
しかも、こうした言葉は、聞く側にとっても受け取りやすいものです。
高度な数学や物理学の命題では、それが何を意味し、どこに価値があるのかを理解するために、聞き手にも前提知識が必要になります。命題を口にしただけで、誰にでもその内容の素晴らしさが伝わるわけではありません。
難しい科学用語を使って知的に見せることはできても、その命題の内容がどう優れているのかまで、知識のない聞き手に伝わるとは限りません。
一方、「弱い立場の人を大切にしよう」なら、専門的な知識を共有しなくても、善いことを言っているという印象は伝えられます。
ここで、「善い内容の言葉だ」という評価が、「それを語るこの人は、善く、見識のある人だ」という評価へ移ることがあります。
自分の知識や実績を示さなくても、命題の好ましさを、自分の評価へ取り込めるわけです。
誰でも口にでき、多くの人に好ましく受け取られる。命題で自分を飾りたい人にとっては、使いやすい言葉です。
そこから学びや実行へ進まず、口にしただけで理解や実績を備えた人のように振る舞うなら、その言葉は自分を飾るためのものになっています。
その結論に至るまでの検討を飛ばす
「この問題の本質はこうだ」と言えば、なぜそう判断したのかを説明する必要が出てきます。そこで必要になるのが、結論に至るまでの検討を理解することです。
出来上がった表現だけを見ていると、その人が何を学び、何を試してきたかを見落とします。ゴッホやピカソを「天才だから、自由に描いて独自の画風にたどり着いた人」とだけ考えるときにも、この省略が起こります。
ゴッホは、版画を模写し、シャルル・バルグの素描教材などを使って、人物の描き方や遠近法を学びました。独学の比重が大きかった彼も、先人の技術を身につけるために取り組んでいます。
その後、パリで印象派や新印象派の作品に接すると、色彩や筆の使い方を変え、学んだ表現を自分の制作で試しました。
ピカソの《科学と慈愛》(1897年)について、バルセロナのピカソ美術館は、若い彼が受けた美術教育の成果が集約された作品と説明しています。
同美術館は、その後の青年期の作品にも、バルセロナやパリの新しい表現を吸収していく過程が見えるとしています。
技術を身につければ、自分で試せる方法が増えます。先人の表現を理解すれば、そのどこを変えようとしているのかも具体的に考えられます。そうして学んだことが、創造のための力になります。
思想を自分の考えとして扱うにも、何を問題とし、何を根拠に結論を出し、どんな条件で成り立つのかを理解する必要があります。その理解があれば、別の場面に当てはめたり、疑問に答えたり、自分で修正したりできます。
言い方を覚えることと、その内容を自分で説明できることの間には、学び、考える過程があります。
命題で自分を飾る人は、この過程を飛ばしたまま、理解した人のように振る舞えるのです。
知識が不十分だからこそ、自分をイケてると思える
昔からある考えでも、初めて知れば新鮮です。その考えが受けた反論や、実際に試して生じた問題を知らなければ、本人には、魅力的で力強い考えに見えます。
その新鮮さを「自分は周囲より先を見ている」と思う根拠にすると、知識不足が自信を生みます。
数学者ガウスは、『数論研究』の序文で、当初はその分野の最近の成果を知る手段がなく、独力で研究を進めていたと振り返っています。後に先人の著作を読み、自分が考えていたことの多くが、すでに詳しく研究されていたと知った。それによって関心はさらに強まり、先人の研究を踏まえて先へ進んだ、と記しています。
ここでは、過去の成果を知ったことが、さらに研究を進めるきっかけになっています。
ところが、借りた命題で「イケてる自分」を演じている人にとって、過去を調べることには、都合の悪い面があります。最先端のつもりで語っていた命題が、大昔から論じられ、その欠点まで詳しく指摘されていたと知るかもしれないからです。
自分は先へ進んだつもりでも、先人が苦労した問題を、まだ知らないだけかもしれない。
調べなければ、その可能性に向き合わず、自信満々でいられます。
若い頃から同じ命題を得意げに語ってきた人なら、見直すとなると、長年信じてきた「ものがわかる自分」も揺らぎます。
若い頃にカッコイイと思った服装を、今も先端のつもりで身につけ続ける。思想風味の言葉にも、これと似たことが起こります。
その後にわかった事実や、新たに示された反論を確かめるより、「今の人には、この大切さがわからない」と考える。そうすれば、自分への評価を変えずに済みます。
自分は今も先進的なつもりで、実際には、昔の自分をカッコイイと思い続けるために、その命題を使っているのです。
厄介な条件を省くと、カッコイイことが言える
検討を省くと、気持ちよく言い切れる理由が、もう一つ生まれます。難しい条件が話に出てこない分、すっきりした結論になることです。
過去の思想から、成立する条件や留保、反論への応答を取り去れば、印象的な一文だけが残ります。元の思想にあった内容を失っていても、本人には、いっそう明快な考えに感じられるでしょう。
具体的な提案でも、同じことが起きます。
たとえば、「誰も取り残さない」という言葉に惹かれた人が、地域の相談窓口について、次のように提案したとします。
「私が思うに、困っている人を助ける窓口で、相談の受付に制限を設けるべきではないんですよ」。
実行するなら、まず、今の受付方法では誰がどのように困っているのかを調べます。そのうえで、受付時間を延ばすのか、人員を増やすのか、別の支援先につなぐのかを検討します。相談を受け付けた後に、実際の支援を届ける準備も必要です。
「助けたい」という願いを、「この方法で助けられる」という提案にするには、ここまで具体化することになります。
ところが、その過程を飛ばせば、「とにかく困っている人を助けよう」と言い切れます。実行の難しさを話さずに済む分、語り手の善意や決断力が際立ちます。
考えるべき問題を省いて話を簡単にしたのに、それを「問題を解決する方法を見つけた」と受け取ってしまう。
言葉の上では、すっきりした答えが出ています。現場には、誰が何をするかという問題が残っています。
説明できないと、相手の理解力のせいにする
そこで、「人員と予算はどう確保するのですか」と尋ねられたとします。
答えるには、調べ、計算し、ときには提案を変える必要があります。答えに詰まれば、人前で見せていた「よくわかっている自分」と、実際に説明できる内容との差も明らかになります。
ここで、具体的な説明に進む代わりに、次の言葉を返したら、どうでしょうか。
「あなたは何もわかっていない」。
質問されているのは、人員と予算です。返答で問題にされているのは、質問した人の理解力です。
自分が説明できないことを、相手が理解できないことにすり替えているわけです。
相手を見下せば、自分の理解を確かめ直さずに、自分の方が世の中をわかっているつもりでいられます。
得意げに語る口ぶりは身についている。しかし、中身を尋ねられると、説明より先に相手を低く扱う。この落差に、その語りの浅さが現れます。
しかも、この応答によって、知識不足を直す機会まで失われます。知らないから気持ちよく語れていたのに、その気分を守るために、知ろうとしなくなるのです。
善を掲げれば、他人を裁く側に回れる
さらに、「誰も取り残さない」のような命題には、その目的自体には反対しにくいという特徴があります。
そのため、具体的な提案への疑問まで、その善への反対であるかのように扱うことができます。
先ほどの「人員と予算はどう確保するのですか」という質問に、今度はこう答えたとします。
「あなたは、困っている人を見捨ててもよいと思うのですか」。
質問者は、支援を実現する方法を尋ねています。ところが返答では、その人が困っている人を助けたいと思っているかどうかが問題にされています。
質問者の方が、「私も困っている人を助けたいと思っています。ただ……」と、自分の善意を説明させられます。その間、提案者は、自分の提案を具体的に説明しないまま、相手の道徳性を問う側に立てます。
自分の提案を評価される側から、他人の人格を評価する側へ回る。
これは、人に示せる専門知識や実績を持たない人にとっても、魅力的な逆転です。
知識や実績では相手に及ばなくても、「自分は弱者の側に立っている」「相手は冷たい現実論しか語らない」という構図をつくれれば、道徳的には自分の方が上だと演出できます。
自分の能力を積み上げて評価を得る代わりに、善を掲げ、そこから相手を裁く立場を得ようとするのです。
カッコイイ命題は、知識や実績を持たない人にとっても、一言で他人より上に立とうとするための、一発逆転の武器になり得ます。
このやり方では、反論の内容を検討しなくても、自分が優位に立った気分でいられます。相手の疑問を「善への反対」に置き換えれば、自分に不足している説明を補わずに、相手の方に弁明を求められるからです。
「弱者の味方」が、弱者の話を聞かなくなる
では、先ほどの窓口で、人員や支援先の準備が追いつかないまま、相談の受付を増やしたとします。利用者から、こんな訴えが出てきました。
「相談は受け付けてもらえますが、その後の対応をずっと待っています。困っている状況は変わりません」。
この報告を手がかりに、どこで対応が止まっているのかを調べれば、支援の方法を改善できます。
しかし、「誰も取り残さない立派な提案をした自分」を大切にしている人には、この報告は都合が悪くなります。自分の提案で解決できていない問題を示されるからです。
そこで、「もっと多くの人を助けようという考えを理解してほしい」と答え、自分に賛同する利用者の話だけを取り上げたら、どうでしょうか。
支援を訴えるときには、「困っている人がいる」という事実を使います。支援の方法を問われると、「その方法では、まだ困っている」という本人の報告を退けます。
「弱い立場の人の声」が、「自分を肯定してくれる人の声」にすり替わっています。
その結果、取り上げられるのは、語り手が「自分は弱者の味方だ」と思い続けられる話ばかりになります。
別の方法を望む当事者は、自分の困難を説明するだけでなく、支援者に考えを変えてもらうための努力まで求められます。「弱者を理解している自分」を守ろうとする相手に、目の前の自分を理解してもらわなければならないのです。
自分を飾るための言葉で、他人に苦労をさせる
窓口の担当者は、増えた相談に対応するため、残業したり、ほかの業務を減らしたりすることになるかもしれません。利用者は、支援を待つ間も、自分の困りごとに対処し続けます。
提案者が検討を省いた部分を、現場の人が自分の時間や労力で引き受けています。
社会の制度を変える提案なら、影響はさらに広がります。新たな費用を払う人、変更のために働く人、これまで使えていた仕組みを失う人が出てくることもあります。
自分の思想によって「新しい時代をつくる」と望むなら、何を改善できると考え、その根拠は何か、誰にどんな負担を求めるのかまで説明する責任があります。
「大きな変革には痛みが伴う」と語るなら、その痛みを誰がいつまで引き受け、その先に何を見込むのか。見通しが外れたとき、どう修正するのか。そこまで考える必要があります。
ところが、命題を語る自分を守ることが優先されると、考えと暮らしの関係が逆転します。
人々の暮らしをよくするために考えを修正するはずの場面で、その考えを語る自分のカッコよさを守るために、人々へ苦労を受け入れるよう求める。困っているという報告さえ、「こちらの考えを理解できていない」と扱われます。
本人は、借りた命題で「イケてる自分」を演じ続ける。その間、周囲の人は、本人が考えなかった問題に、働き、支払い、我慢することで対処し続けます。
自分を飾るために選んだ言葉に、他人の暮らしを合わせさせる。思想をファッションにすることの危険は、この逆転にあります。