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はじめに:歴史を知ることの意味
日本の歴史は長く、複雑であり、時に議論を呼ぶ事実もある。
日本人なら日本の歴史を知っておこう。
ただし、好きになる必要はない。
自分たちのルーツを知り、何を考えどう行動したかを理解すれば、これからどこへ行くかも考えやすくなる。
だからこそ、歴史を学ぶことは大切だ。
ここでは、日本の歴史の重要な側面について、理屈コネ太郎の視点からボンヤリと説明していく。
日本の歴史を知って、「やっぱり日本ってダサい」と思うのは全く各自の自由である。
さて、いつものように――
これは理屈コネ太郎の管見内の独断と偏見による“知ったかぶり”であることを銘記のうえで、読み進めていただきたい。
1. 江戸時代末期と明治維新:薩長によるクーデターと独立維持
幕末の緊張とペリー来航
1853年、ペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀に現れ、日本に開国を迫った。
彼の使命は、米国大統領フィルモアの国書を将軍に渡し、通商・漂流民の保護・補給港の提供を求めることだった。
つまり、ペリーの要求は明示的な「植民地化」ではなく、まずは貿易と外交関係の樹立を目的としていた。
しかし、その背後にあるのは軍事力による威圧であり、
通商要求を拒めば武力衝突も辞さないという暗黙の圧力があった。
アメリカは当時、太平洋航路の確保と東アジアでの影響力拡大を狙っており、
日本が開国しなければ「強制的に門戸を開かせる」という方針を取っていた。
幕府はこの初回の来航では即答を避け、国書を受け取るにとどめ、
ペリーを一旦追い返す形を取った(これが一度目の来航)。
だが、翌1854年、ペリーは前回の倍近い規模の艦隊を率いて再来航する。
この二度目の来航では、軍艦11隻が江戸湾(現在の横浜沖)に姿を現し、
「もはや交渉を拒めば武力行使もありうる」と示唆する露骨な圧力をかけた。
幕府はついに交渉を受け入れ、1854年に日米和親条約(神奈川条約)を締結。
この条約によって下田と函館の開港、アメリカ船への燃料・食糧の供給、
そして漂流民の保護などが定められた。
つまり、ペリーが迫ったのは「通商条約の前段階としての開国要求」であり、
この時点で日本はまだ「植民地化」ではなく、「武力を背景とした外交関係の強制的開始」に直面していたのである。
当時の世界は、西欧列強がアジアとアフリカを次々と植民地化していく真っ只中だった。
彼らの支配は、もはや「人間対人間」の関係ではなかった。
イギリスはインドを支配し、フランスとオランダは東南アジアで現地住民を労働力として搾取。
肌の色がそのまま支配と被支配の線引きであり、白人以外は“劣等人種”と見なされていた。
そこに「人間としての尊厳」という概念はまだ存在しなかった。
日本がその波に飲まれれば、日本人も“人間ではない側”に転落する。
幕末の為政者たちは、その現実を直視していた。
だからこそ、ペリーの艦隊に対して徳川幕府が容易に屈しなかったのは、単なる外交判断ではなく、
「人間として生きる権利を守る」ための最後のもがきだった。
薩長による倒幕:制度疲労した幕府へのクーデター
しかし、260年に及ぶ平和の中で江戸幕府は制度疲労を起こしていた。
対外的な危機への対応は後手に回り、内部の官僚機構は硬直していた。
そのような中、薩摩藩と長州藩は独自の判断で外国と戦火を交える。
薩摩は1863年の薩英戦争でイギリス艦隊と戦い、
長州は1864年の下関戦争で4国連合艦隊(英・仏・米・蘭)と砲火を交わした。
いずれも幕府の命令ではなく、藩の独断行動である。
この二つの戦争は、幕藩体制の権威がすでに形骸化していたこと、
そして薩長がすでに「国家を守る主体は自分たちである」と自覚し始めていたことを示している。
彼らの行動には、幕府を超えて国を守ろうとする気骨と、
“旧体制では日本は滅びる”という危機意識があった。
こうした薩長の独断専行が倒幕運動の起点となり、
最終的に明治維新へとつながっていく。
明治維新とは、制度疲労を起こした幕府への薩長連合による政治的クーデターであり、
同時に日本の独立を守るための必然的な政変だった。
2. 明治日本の戦略:朝鮮を独立緩衝国にする構想
明治維新後、日本は欧米列強に追いつき独立を守るために急速な近代化を進めた。
そして同時に、清国との国境に位置する朝鮮半島を近代化させ、
「独立した国家」として清と日本の間の緩衝地帯にしようと関与を深め、日本への清の直截の影響を排除しようとした。
この政策は、冷徹な地政学的判断に基づいていた。
清が朝鮮を通じて日本に影響を及ぼすことを防ぎ、同時に朝鮮を近代化させて独立を支える――
それが日本の安全保障上の狙いだった。
1876年の江華条約(日朝修好条規)によって、朝鮮は清の属国体制を離れ、形式的な独立を得る。
だが清の影響は依然強く、朝鮮内部でも親日派と親清派の対立が続いた。
その緊張がついに爆発したのが、1894年の日清戦争である。
当時の世界には、「宗主国」と「植民地」しか存在しなかった。
独立国として対等にふるまえる国など、日本を含めほとんど存在しなかったのである。
イギリスやフランス、ロシア、アメリカといった列強が世界を分割しており、
その下に置かれた国々は、否応なくその支配の論理に従うしかなかった。
だからもし、私がその時代の日本人であったなら、こう考えたに違いない。
「アジアが白人宗主国とアジア人植民地でできているとしたら、日本はアジア人植民地に絶対なってはならない。そのために自前の領土と資源を獲得するしかない。」
それは、当時の世界観と基準において生き残るための単純で切実な判断のはずだ。
“支配するか、支配されるか”という単純な構造のなかで、
日本人が自らを守る道は、当時の世界ルールでは自らが支配する側に回ることだったのだ。
この現実認識こそが、明治の近代化を急がせ、
のちの日本の外交・軍事政策、そしてアジアへの関与の根幹にあった。
「宗主国としての自立」こそが、当時の日本人にとって“独立”の具体的な姿だったのである。
3. 日清戦争:清の宗主権を否定し、朝鮮の独立を確立した戦争
日清戦争は、日本が初めて清と対等に戦い、そして勝利した戦争だった。
だが、それ以上に重要なのは、清の朝鮮に対する宗主権を国際法上で否定させたことである。
1895年、戦争終結に際して締結された下関条約の第一条にはこう記されている。
「清国は朝鮮国が完全無欠の独立自主の国であることを確認し、自ら朝鮮国の宗主権を放棄する。」
この一文によって、清が二千年にわたり保持してきた朝鮮支配の法的根拠が消滅した。
すなわち、日清戦争の最大の成果とは、日本が清に宗主権放棄を明文化させ、朝鮮を国際法上の独立国家としたことである。
この条文がなければ、朝鮮は今もなお中国の“従属国”であったかもしれない。
日本が戦って得た最大の成果は、アジアの旧体制を終わらせたことそのものだった。
4. 朝鮮半島にとっての「独立」とは何だったか
清の支配を脱した朝鮮は、1897年に国号を「大韓帝国」と改め、近代国家を目指した。
だがその独立は脆弱だった。
下関条約で日本が中国に朝鮮から手を引かせると、今度はロシアが朝鮮半島へ進出を始める。
ロシアの南下政策は苛烈で、反抗する民族を徹底的に抑圧し蹂躙していた。
朝鮮の支配層もその現実をよく知っていた。
「このままではロシアに飲み込まれる」と考えた一部の知識層や政治家の中には、
“どうせ支配を受けるなら、ロシアより日本のほうがましだ”と考える者が少なくなかった。
彼らは日本を「アジアの国」であり、同じ文明圏の延長にある存在と見ていた。
日本に保護を求めた背景には、ロシア支配への恐怖と、
朝鮮自身が独立国家として自立する力も気概も持ち合わせていなかったという現実があった。
一方で、朝鮮の中には「どの国に支配されるか」ではなく、
真に自立した独立国家をどう築くかを模索した人々も存在した。
彼らは日本やロシアの影響下から離れ、朝鮮が自らの力で近代化を進めることを理想としていたが、
政治的・軍事的基盤があまりにも弱く、その理想は実現しなかった。
こうして1905年、朝鮮は第二次日韓協約によって日本の「保護国」となり、
日本がその外交・防衛を担当する関係に入る。
そして1910年――、日本は「清の手を引かせ、独立させてもなお自立できぬなら、
もはや一体化して同じ制度の中で育てるしかない」と判断し、
日韓併合を行った。
それは、欧米のような植民地支配ではなく、
「日本の一部として扱う」という政策だった。
当時の日本の指導層にとって、併合とは“支配”というより「保護と育成」の延長だった。
もっとも、当時の日本国内でも朝鮮併合に反対する声は少なくなかった。
後に朝鮮で暗殺される伊藤博文も、併合には慎重で、
むしろ「保護国のまま独立を育てるべきだ」と考えていた人物である。
やがて大東亜戦争の時代に入ると、朝鮮半島出身者は日本人として戦争に参加することになる。
彼らは同じ国の兵士として戦い、戦没者の中には靖国神社に祀られている者も多い。
靖国には現在も、朝鮮半島出身の日本人として祀られた英霊の柱が存在する。
また、戦時中に日本軍が朝鮮人女性を略取・誘拐して「慰安婦」として働かせたとする
公式な記録や命令文書は一切存在しない。
慰安婦制度そのものは戦場の現実の中で運営されたが、
国家政策として「誘拐・強制」が行われた証拠は確認されていない。
同様に、戦時中に朝鮮人が徴用された事実はあるが、
それは当時の日本人全員に適用された国家総動員法に基づくもので、
朝鮮人だけが差別的に徴用されたわけではない。
むしろ、日本本土の日本人も同じように工場や鉱山に動員されていた。
この経緯をもって「日本が朝鮮の独立を奪った」と単純化するのは正確ではない。
朝鮮の独立は、清が善意で与えたものではなく、朝鮮が自ら勝ち取ったものでもなく、
日本が日清戦争に勝利し、清に宗主権を放棄させた結果として成立したものである。
その後、朝鮮は列強の干渉を受けて日本の保護下に入り、
最終的に併合されたのも、当時の国際秩序の延長線上にあったと言える。
5. 東南アジアの現実:白人支配の非人間性と日本の決意
当時のアジアは、ほぼすべてが白人列強の支配下にあった。
イギリス領インド、フランス領インドシナ、オランダ領東インド、そしてフィリピンにはスペイン。
現地人は財産を奪われ、労働力として酷使され、教育も権利も与えられなかった。
白人によるアジアの支配とは、アジア人を物として扱った支配である。
人種の優劣が公然と制度化され、黒髪で黄色い肌を持つ者は、
「劣等種」とされた。
だからこそ日本は、
「アジアで唯一、人間としての尊厳を保った独立国であろう」と決意した。
その決意が明治維新を支え、近代化を推し進め、
最終的に「植民地にはならない国」を築く原動力になった。
この現実を踏まえなければ、当時の日本人がなぜあれほど近代化に狂奔したのか、
理解することはできない。
6. 大東亜戦争と朝鮮半島の現実
中国との関係
大東亜戦争において、日本が戦ったいわゆる中国は「中華民国」であり、
「中華人民共和国」は戦後に成立した国家である。
にもかかわらず、現代では“日本が中華人民共和国を侵略した”かのように語られている。
歴史を時系列で見れば、この主張がいかに矛盾しているかが分かる。
朝鮮半島の徴用と事実
当時、朝鮮は日本に併合され、日本の一部だった。
朝鮮半島出身者も帝国臣民として、徴用・勤労動員・兵役の対象となった。
それは朝鮮人だからではなく、国家総動員法によって本土の日本人と同じ法体系で動員されたからである。
戦時体制下で「誰もが徴用された」という事実を無視し、
朝鮮人だけが特別に強制されたと語るのは、歴史を政治的に歪める行為である。
7. 日韓併合の史実:条約による国家間の合意
1910年、日本と大韓帝国の間で日韓併合条約が締結された。
これは国際法上、正式な国家間合意であり、武力による強制ではなかった。
もちろん、併合を歓迎しなかった朝鮮人も多かったが、
当時の朝鮮は政治的混乱と外圧の中で、自立した運営能力を欠いていた。
併合後、朝鮮半島ではインフラ整備・教育制度・衛生改革が進み、
識字率は上がり、近代的都市が誕生した。
その功罪を冷静に見ることが、歴史を“感情”ではなく“事実”として扱う第一歩だ。
8. 天皇と国家の連続性
日本は建国以来、父系男子による天皇という祭祀王を維持してきた。
この連続は世界史上ほぼ唯一の事例であり、
「日本国とは何か」「日本の文化とは何か」を考える際の根幹をなしている。
もしこの系譜を現代で絶やせば、
それは日本という文明そのものを自ら崩すことに等しい。
天皇制をどう捉えるにせよ、この“連続性”を軽視すべきではない。
天皇の存在は、単に象徴や制度の問題ではなく、
日本という共同体が千年以上にわたり「連続して存在した」という証明でもある。
この事実を歴史の文脈で見ることが、日本の特異性と文化的強靭さを理解する鍵となる。
9. 歴史を知る意味:好きにならなくても知っておけ
歴史を学ぶとは、固定観念を問い直すことだ。
日本の歴史を好きになる必要はない。嫌いでも構わない。
だが、知らないまま嫌うのは、無知の快楽にすぎない。
史実を知り、自分で調べ、自分の頭で考えること。
それが現代に生きる日本人に相応しい知的誠実さである。
そして、日本の歴史を学んだうえで「それでも日本が嫌いだ」と思うなら、それでいい。
ただしその嫌悪は、無知ではなく理解に基づいたものであってほしい。
知ったうえで批判する人間は、知らずに罵倒する人間よりずっと誠実である。
日本の歴史には誇るべき面と、反省すべき面がともに存在する。
その両面を冷静に理解することこそ、成熟した国民の知性である。
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