報道番組は、いつから「ニュース座談会」になったのか

報道番組のスタジオでキャスターやコメンテーターが円卓を囲み、ニュースを語り合う様子を描いた白地・黒線の線画イラスト
報道番組は、いつから「ニュース座談会」になったのか

現在、報道番組を見ていると、
出来事や取材対象そのものを見せられているというよりも、
キャスターやコメンテーターが語り手となる
「ニュース座談会」を見せられているような気がする。

スタジオの主のように番組を采配するキャスター、
現地に立つレポーター、
問いを投げかけるインタビュアー、
メインキャスターの問いかけに予定調和的に応じるコメンテーター。

彼らは常に画面の中心近くに居て、
それぞれの立場から、
現実を要約し、意味づけし、代弁する。

そんな気が、最近とみに強くするのである。


Contents

序章|違和感の正体

この違和感は、
報道内容そのものに由来するものではない。

もっと手前、
番組の構造や画面の構成に由来する違和感である。

誰が画面の中心に立ち、
誰が語り、
誰が語られ、
誰が背景に退いているのか。

それを眺めていると、
私たちは出来事を見ているというより、
「出来事について語る出演者たち」を見せられている時間の方が、
圧倒的に長いことに気づく。


第1章|報道の主役は、本来誰であるべきか

ニュースや報道、ジャーナリズムの主役は、
本来、出来事や当事者そのものであり、
それに巻き込まれた人々や現実である。

記者やレポーターは、
それを社会に伝える媒介であり、
主役ではない──
少なくとも私は、そう考えてきた。

その前提で、
これまでボンヤリと報道番組を眺めてきた。

だが最近、
報道番組をたまに視聴すると、
ここまで述べてきたような在り方に、
はっきりとした違和感が立ち上がってくる。


第2章|番組構成に現れる「主語のすり替え」

現在の報道番組では、
画面に必ず「報道する側の人」が映っている。

現地の人や当事者は、
短いコメントや断片的な映像として登場するが、
語りの主導権は持たない。

出来事は、
報道する側の人たちによる
「私たちが現場で見た」
「私たちが話を聞いた」
という形で提示される。
それは恐らく、
報道番組と名乗るための最低限の要件なのだろう。

つまり現実は、
直接示されるのではなく、
報道側によって編集・代弁されたものとして、
私たちの前に差し出される。

ここで主語は、
出来事から報道者へと、
静かに移動している。
そしてそれは、画面構成に顕著に表れている。


第3章|コスト構造から見た「報道者主役化」

なぜこのような事態が起こるのか。
以下は、あくまで私見である。

事件や出来事を、
背景や文脈、利害関係まで含めて理解し、
それを分かりやすく伝えるには、
膨大な取材と解釈のコストがかかる。

限られたマンパワーと資金で、
日々発生する事件や出来事を追いかけることは、
原理的に不可能に近い。

仮に十分なマンパワーと資金があっても、錯綜する情報から事実を切り出し真実を組み立てられる磨かれたセンスと確かな技術と座標軸を持つ人材を必ず確保できるとも限らない。

しかも、
努力を惜しまずに取材したとしても、
必ずしも視聴率や分かりやすさに直結するとは限らない。

そこで、
この段階を大幅に簡略化したのではないか。
私はそう推測している。

だが、
出来事の掘り下げを省けば、
報道番組としてのコンテンツは乏しくなる。

そこで主役を、
出来事そのものではなく、
それを伝えるキャスターやコメンテーターに移し、
彼らと彼らの語りを番組のコンテンツに仕立てた。

彼らを主役にすれば、
画面は常に成立し、
感情の起伏も表現でき、
尺も埋めやすい。

これは思想というより、
制作とコストの要請による選択だったのではないか。
私はそう考えている。


第4章|報道番組の画面の中にいる人々

報道番組の画面に登場するのは、
キャスター、レポーター、インタビュアー、
そしてコメンテーターといった人々である。

彼らに共通しているのは、
深い専門性というより、
画面の中心に立って語れる人物像であることだ。

質実剛健で無骨な人物は少なく、
多いのは、

・やや知的
・清潔感があり
・美しすぎないが、映像的に整っている

そうした人々である。

暗いニュースでは暗い表情で、
明るいニュースでは明るい表情で語る。
時に怒りすら露わにし、「べき論」も展開する。

彼らは結果として、
出来事を解説する以上に、
「どう受け取るべきか」という
感情のトーンを代理で提示している。


第5章|「報道している私たち」を見せる装置としてのニュース

こうして見ると、
報道番組は、
事実を淡々かつ深く提示する装置というよりも、

正しく取材している私たち
誠実に向き合っている私たち

を可視化する装置になっているように見える。

それは自己顕示というより、
善意や正義を示し続けなければ、
番組が成立しない構造なのだろう。

結果として、
報道番組は
「現実を見る窓」から、
「正義的な語りを共有する舞台」へと、
近づいてきた。


終章|私たちは何を見ているのか

私たちは、
報道番組というジャンルを通して、
日々の出来事や事件を題材にした
キャスターやコメンテーターの語りを
見ているのかもしれない。

そしてそれは、
限られたマンパワーと資金という制約条件の下で、
報道番組という形式を成立させるための、
経営的な最適解なのかもしれない。

私たちは、
出来事そのものを見ているつもりで、
実際には、
報道側の視線を通した現実を見ている。

冒頭で感じた
「ニュース座談会を見せられているような感覚」は、
そのことへの違和感なのだろう。

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