はじめに|具体化すると命題の輪郭が見えにくくなる
抽象度の高い命題は、多数の事象に共通する構造を取り出している。
その成立過程では、個々の事象に付随する条件が捨象されている。
そこから具体例へ降ろすと、捨象されていた条件が再び入り込む。
すると、具体例に含まれる個別条件が、もとの抽象命題の意味へ逆流することがある。
具体化すると、抽象命題が取り出していた共通構造の輪郭が見えにくくなる。
そのことを認識し、具体例に付加された条件を見分けられる場合には、具体例を理解の足場として利用できることもある。
この記事では、抽象命題を具体例へ降ろすときに生じる、この副作用について考える。
抽象化とは、個別条件を捨てて構造を取り出すこと
現実の出来事には多数の条件が含まれている。
人間関係なら、性格、立場、過去の経緯、利害、感情、その時点の状況が重なる。
自然現象なら、物体の形状、摩擦、空気抵抗、風、温度、初期条件などが関与する。
抽象化では、そうした個別条件の一部が捨象され、複数の事象に共通する関係が残る。
個別性が減ることで、命題の射程は広がる。
抽象度の高い命題の強さは、この構造にある。
短い表現には、別の成り立ちを持つものもある。大量の背景や意味を短い言葉へ圧縮した命題である。この違いについては、関連記事 抽象命題と高密度命題の違い|捨象で生まれる言葉と圧縮で生まれる言葉で考える。
具体例には、捨てた条件が戻ってくる
抽象命題を P とする。
それを一つの現実へ適用した結果を E とすれば、
P + C1 + C2 + C3 + … → E
となる。
C1、C2、C3 は、その事例固有の条件である。
抽象命題の成立過程で捨象された条件が、具体化すると再び加わる。
したがって具体例 E には、抽象命題 P の構造と、その事例固有の条件が同時に含まれている。
ここで具体例を通して P を理解しようとすると、C に由来する特徴まで P の性質として読み込みやすくなる。
具体例から抽象命題へ、情報が逆流するのである。
ニュートン力学と現実の運動
この関係は、理想化された運動モデルと現実の運動を比べると見えやすい。
空気抵抗を捨象し、重力加速度を一定とし、初速度を0とした自由落下なら、
s = 1/2 × g × t²
という簡潔な関係で運動を記述できる。
ここでは、現実の運動に含まれる多数の条件から、基本的な関係が取り出されている。
実際に紙片を高い場所から落とせば、形状、姿勢、空気抵抗、周囲の空気の流れなどが加わる。
その結果として現れる運動は、理想化された自由落下より複雑になる。
現実にはさらに多数の条件が重なり、現象によっては予測を確率的に扱う必要も生じる。
理想化されたモデルと現実の運動の差には、具体化によって戻ってきた条件が現れている。
抽象命題と具体例の関係も、これに似ている。
具体例の情報量が、命題の構造を覆う
抽象命題は、共通構造を残している。
具体例には、その事例だけが持つ大量の情報が含まれている。
この二つを重ねると、具体例の目立つ特徴が認識を支配しやすい。
たとえば、人間関係について何らかの一般的な関係を示す命題があったとする。
それを職場の二人へ当てはめれば、二人の性格、過去のやり取り、役職、周囲との関係、その時点の感情まで加わる。
その一例を通して命題を理解しようとすると、二人固有の事情まで命題の一部に見えてくる。
本来は広い範囲に共通する構造が、一つの人物関係の物語によって覆われる。
これが具体化によって起きることである。
「具体例を挙げて」が理解を遠ざけるとき
抽象度の高い命題は、そのままでは理解しにくいことがある。
そこで具体例を求める。
そのとき重要なのは、具体例へ何が付加されたかを見続けることである。
具体例に現れた特徴のうち、どこまでがもとの命題に由来し、どこからがその事例固有の条件によるものなのか。
この区別が失われると、具体例の理解が、そのまま抽象命題の理解として取り込まれる。
「それは、例えばどのような事例ですか」という問いも、この点によって意味が変わる。
具体化によって個別条件が入り込むことを承知したうえで、理解への足場として一例を求めるなら、その具体例は役に立つ。
その際に必要なのは、具体化によって加わった条件を抽象命題へ持ち帰らないことである。
まとめ|危険なのは、付加された情報の逆流である
抽象化では、個別条件が捨象され、共通構造が残る。
具体化では、その事例固有の条件が再び加わる。
具体例には、抽象命題と個別条件が共存している。
その個別条件を命題の意味へ持ち帰ると、抽象命題が取り出していた共通構造の輪郭が見えにくくなる。
具体例の危険は、降りるときに付加された情報を、抽象命題へ持ち帰ってしまうことにある。
具体例を使うときに必要なのは、その例に何が付加されたのかを見抜き、付加された条件を命題の意味へ逆流させないことである。