この記事は、
・職場や公共の場で「なぜか周囲を不快にさせる音」を出す人が気になる人
・あるいは「もしかして自分も…?」と一瞬でも胸にチクリときた人
その両方に向けた、人間観察の記録である。
誰かを断罪するための記事ではない。
もっと言えば、私自身も反省材料を探しながら書いている。
さて。
中高年男性が発する音に、知らず知らず悩まされている人は多い。
いびき、くしゃみ、クチャクチャ音、シーハー音、舌打ち、げっぷ、大あくび、鼻をすする音。
動作のたびに入る「よいしょ」「はぁ…」。
コップを置くときの必要以上に主張の強い“カン”。
飲み物を飲んだ後の「っはぁ〜〜」。
ひどい人は「カァーッ、カァーッ」と排痰しているし。
音ではないが、貧乏ゆすりも忘れてはいけない。
あれは視覚情報だが、脳内では立派な騒音である。
本稿では、こうした「中高年男性不快音現象」の原因と、
それにどう付き合うのが一番ラクかについて、
当事者世代の一員として私見を述べてみたい。
なお、ここに挙げる特徴がすべて当てはまる人は稀である。
誰しも年齢や環境次第で、一時的にこうした振る舞いをしてしまうことはある。
問題は――それに気づけるかどうかだ。
Contents
不快な音を出す理由
⚠️ ここから先は、やや辛辣な表現を含む。
同世代の筆者による、自戒を込めた人間観察である。
階層上位意識と、気の緩み
男性は、思っている以上に「その場の序列」に敏感だ。
中高年男性の一部には、
「この場では自分が一番偉い」
と無意識に勘違いしている者がいる。
その結果どうなるか。
「自分より下の人間がいる空間」では、
音を出すことに遠慮がなくなる。
ガサッ。
ドン。
ズズーッ。
ハァ〜〜。
まるで、猿山でボスが留守のときにボス面する雄猿のようで、
客観的に見ると、なかなかに味わい深い光景である。
学生時代の部活や、序列が明確な組織にいた人ほど、
「気を使わなくていい場面」と「気を使うべき場面」を切り替える癖が抜けない。
問題は、その感覚を
組織の外にまで持ち出してしまうことだ。
定年後も元管理職の肩書のまま振る舞ってしまい、
周囲を困惑させる人がいるのは、だいたいこの延長線上にある。
共感力と想像力の欠如
不快な音に対する苦情が、なかなか本人に届かないのはなぜか。
理由は簡単だ。
多くの人が、面倒だから黙っている。
だが、本人はそれを
「問題が起きていない」
と解釈してしまう。
結果として、
疎まれていることにまったく気づかないまま、
今日も元気にズズーッ、ハァ〜〜、ドン。
これは悪意というより、
想像力の欠如である。
教養・配慮・メタ認知力の不足
音を出さない中高年男性は、
だいたい身だしなみ、言葉遣い、立ち居振る舞いにも気を配っている。
逆に、不快な音を気にしない男性は、
「細かいことを気にしない俺=器が大きい」
という、少し残念な自己評価をしていることが多い。
実際には、
自己中心的
会話は浅め
話題は自分基準
というケースが少なくない。
「下の連中にどう思われようが知ったことか」
という態度は、
器の大きさではなく、想像力の不足を示しているにすぎない。
孤独耐性の低さと、胆力のなさ
私の観察では、
不快な音を盛大に発して平気な中高年男性ほど、
孤独耐性が低い。
音を出すことで存在感を示し、
「ここに俺がいるぞ」と周囲に通知している。
あるいは、
誰にも構ってもらえないことへの、
ささやかなダダこねかもしれない。
面白いことに、
こうした人ほど、
自分より明確に上位の人物の前では静かになる。
借りてきた猫、とはよく言ったものだ。
孤独耐性が高く、胆力のある中高年男性は、
音を出さず、気配を消し、ただそこに居ることができる。
それができない人は、良い子でいられない。
孤独耐性が高く胆力のある中高年男性は、静かに気配を消してただそこに居ることができる。詳細は別記事音を出さず気配を消す訓練|自ら孤独を作り思考するを参照。
対策と、ほどよい距離感
不快な音を頻繁に出す中高年男性には、
だいたい次の特徴がある。
周囲を見下しがち
共感力が乏しい
会話が自分本位
孤独耐性が低い
このタイプへの最善策は、
距離を取ることだ。
適当に相槌を打ち、
深入りせず、
軽く会釈して、静かに離れる。
ゴマをするのも一つの手だが、
それをマウント材料にされるリスクもあるので、
おすすめはしない。
「あなたはここでは上位ではありませんよ」
と理解を促す方法も理論上は可能だが、
難易度が高く、失敗時のリスクが大きすぎる。
それよりも、
「ああ、猿山タイプの人なんだな」
と心の中でラベリングして、
観察対象にしてしまう方が、ずっと健康的である。
まとめ
中高年男性の不快な音は、
単なる癖ではない。
それは、
その人が“この場での自分の立ち位置”をどう認識しているか
の表出である。
相手を変えるのは難しい。
だが、こちらの受け止め方は変えられる。
「また始まった」と眉をひそめる代わりに、
「ああ、今日も猿山観察日和だな」
と思えたら、少し気が楽になる。
力を抜いて、距離を保ち、
人間観察として眺める。
それくらいが、
この手の音と付き合う、ちょうどいい落としどころかもしれない。
