中高年男性が頻繁に不快な音を出す理由 ☆ 理屈コネ太郎の人間観察

中高年男性が頻繁に不快な音を出す理由|理屈コネ太郎の人間観察
中高年男性が頻繁に不快な音を出す理由|理屈コネ太郎の人間観察

この記事は、

  • 職場や公共の場で、なぜか周囲を不快にさせる音を出す人が気になる人
  • あるいは、「もしかして自分も……」と一瞬でも胸にドキリときた人

その両方に向けた、人間観察エッセイです。

私自身も同じ中高年男性の一人として、反省材料を探しながら書いています。

さて。

中高年男性が自覚・無自覚を問わず発する音に、悩まされている人は少なくありません。

いびき、くしゃみ、クチャクチャ音、シーハー音、舌打ち、げっぷ、大あくび、鼻をすする音。動作のたびに入る「よいしょ」「はぁ……」。コップを置くときの、必要以上に主張の強い「カン」。飲み物を飲んだ後の「っはぁ〜〜」。さらに目立つ人になると、「カァーッ、カァーッ」と盛大に排痰しています。

音ではありませんが、貧乏ゆすりも忘れてはいけません。

あれは視覚情報ですが、受け手の脳内では立派な騒音です。

もちろん、咳、鼻すすり、排痰などには、病気、アレルギー、加齢による身体変化といった理由もあります。避けられない症状そのものを批判するつもりはありません。

実際には、身体的な理由によって音が生じやすくなることと、その音をどこまで抑え、周囲に配慮するかという自己調整の問題が重なっています。

本稿で扱うのは、少し配慮すれば抑えられるはずなのに、周囲を気にせず放出され続ける生活音です。

なぜ、一部の中高年男性は、こうした音を出し続けるのでしょうか。

私は以前まで、これは単純に「マナーが悪い」「自分の音に気づいていない」という話だと思っていました。

しかし、人を観察しているうちに、それだけでは説明しきれないように思えてきました。

そこには、

  • 年齢や職位によって注意してくれる人が減ること
  • 組織生活で身についた序列意識
  • 自分を他人の位置から眺めるメタ認知
  • 「行儀よくすること」を服従と理解するか、環境への調整と理解するか
  • 誰にも監視されていないと感じたときに現れる、その人の「素のOS」

といったものが重なっているのではないでしょうか。

これは研究報告ではありません。

当事者世代の筆者が、日常の人間観察から組み立てた仮説です。

先に結論|自己調整の必要は増えるのに、注意してくれる人は減っていく

結論を先に述べます。

中高年になるほど、本来は自分の振る舞いを自分で整える必要が大きくなります。

若い頃は、親、教師、先輩、上司などが行動を注意してくれます。

家庭を持ち、子育てをしている時期には、家庭内での役割や周囲との関係が、自分の行動をある程度補正してくれます。

ところが、年齢や職位が上がるにつれて、中高年男性を率直に注意する人は減っていきます。

部下は注意しません。

同僚も面倒を避けます。

家族は、言っても直らないと諦めます。

公共の場で出会った他人には、本人を教育する義務などありません。

つまり、

自分で行動を律する必要は大きくなるのに、外部から行動を補正してもらえる機会は小さくなる。

この非対称の中でメタ認知が働かなければ、小さな行動のズレは修正されません。

さらに私は、もう一つ理由があるのではないかと考えています。

一部の男性にとって、

「行儀よくすること」と「誰かに従うこと」が、本人も気づかないまま結びついているのではないか。

すると、

「もう自分には頭を下げる必要のある相手はいない」

と感じたとき、

服従だけではなく、周囲に合わせて自分の出力を調整する機能まで、一緒に解除されてしまいます。

この「服従解除と出力調整解除の混同」が、不快な生活音を考えるうえで重要なのではないかと思います。

女性は不快音が出ないのではなく、出さないようにしている

女性にも、咳、鼻すすり、げっぷ、ため息といった身体音は生じます。

それでも私の観察では、周囲を気にせず生活音を放出し続ける人は、中高年男性に目立ちます。

もちろん、静かな中高年男性もいれば、生活音に無頓着な女性もいます。

それでも、私にはこの種の「出力調整の解除」が中高年男性に目立って見えます。

違いは、身体から音が出るかどうかではありません。

多くの女性は、自分が音を出したことに気づき、それが周囲を不快にする可能性を考え、できる範囲で抑えようとします。

咳をするときには口元を覆う。

鼻をかむために席を外す。

食事のときには口を閉じる。

大きな音が出れば、周囲に軽く申し訳なさを示す。

つまり、音が身体から生じても、そのまま外へ放出せず、周囲に合わせて調整しています。

先日、レストランで食事をしていたとき、近くに男女二人連れがいました。おそらく夫婦だったと思います。

男性はかなりクチャクチャと音を立てて食べていました。

一方、隣の女性は、驚くほど静かに、きれいに食事をしていました。

もちろん、その女性が男性の食べ方をどう思っていたのか、私は知りません。

以前から注意していたのかもしれないし、何とも思っていなかった可能性もあります。

しかし、同じテーブルに座り、同じように食事をしている二人の間に、これほど食事音の差がある。

その光景を見ていると、「加齢すれば身体音が増える」という説明だけでは足りないものを感じます。

女性には抑えられて、男性には抑えられないのではありません。

女性は、自分の音を認識し、それを抑える必要を感じている。一部の中高年男性は、自分が音を出していることにも、それを控える必要にも気づいていない。

あるいは、気づいていても、

「これくらい普通だろう」

「誰にも迷惑をかけていない」

「細かいことを気にする方がおかしい」

と考え、抑える必要を感じていません。

違いは能力よりも、長年どのような自己調整を要求され、それをどのような意味で身につけてきたかという履歴にあるのではないでしょうか。

女性はなぜ「出力調整」を解除しにくいのか

では、なぜ女性では同じ現象が比較的目立たないのでしょうか。

ここには、男性と女性が社会の中で学んできた「行儀よくすること」の意味の違いがあるのかもしれません。

女性は若い頃から、

声の大きさ。

食べ方。

身だしなみ。

愛想。

座り方。

立ち居振る舞い。

周囲への気遣い。

自分が他人からどう見え、どう聞こえているかについて、細かく評価される機会が多かったように思います。

その評価が公平であったかどうかは、ここでは別の問題です。

しかし結果として、

自分を周囲の視点から観察する習慣

を身につけやすかった可能性があります。

そして、もう一つ大きな違いがあるように思います。

一部の男性にとって、行儀よく振る舞う相手は、

「自分より上の人」

になりやすい。

一方、多くの女性にとって調整の対象は、

隣にいる人。

友人。

店員。

家族。

知らない人。

その場を共有している人。

つまり、上下関係ではなく、横方向へ広がっているのではないでしょうか。

上位者の前でだけ自分を抑える人なら、上位者がいなくなれば抑制を解除できます。

しかし、

「他人と空間を共有するときには、自分の出力を少し整える」

という習慣を身につけた人には、解除する理由がありません。

誰にも服従していなくても、静かに食事できます。

誰にも命令されていなくても、ドアを静かに閉められます。

誰も偉い人がいなくても、物を乱暴に置かずに済みます。

これは服従ではありません。

環境への調整です。

「良い子にする」には、服従と調整の二つが含まれている

子どもの頃、

「ちゃんとしなさい」

「行儀よくしなさい」

「静かにしなさい」

と教えられます。

子どもにとって、そこには性質の違う二つのものが混在しています。

一つは服従です。

先生がいるから静かにする。

親に怒られるから静かにする。

目上の人がいるから行儀よくする。

もう一つは、社会的な調整です。

他人も同じ空間を使っているから静かにする。

相手を不快にさせないように食べる。

自分の動作によって周囲の環境を乱さないようにする。

子どもの頃には、この二つを区別する必要はありません。

どちらも外見上は「良い子にする」だからです。

しかし、大人になる過程で、本来はこの二つを分離しなければならないのだと思います。

権威には服従しなくてもよい。

しかし、

周囲への調整まで捨てる必要はない。

むしろ成熟した大人とは、誰かに叱られなくても、自分の判断で出力を調整できる人ではないでしょうか。

ところが、この二つを分離できないまま年齢を重ねると、

「もう子どもではない」

「誰にも叱られない」

「自分より偉い人はいない」

という感覚とともに、

服従解除と出力調整解除が同時に起こる。

本人としては「自由に振る舞っている」つもりでも、実際には周囲への調整機能まで外れてしまっているのです。

会社の肩書と、生身の人間としての評価は別物である

一部の中高年男性は、組織内で得た地位を、そのまま組織の外にも持ち出してしまいます。

男性は、思っている以上に「その場の序列」に敏感です。

学生時代の部活動、年功序列の会社、上下関係の明確な組織で長く過ごした人ほど、

「誰に気を使うべきか」

「誰には気を使わなくてよいか」

を切り替える癖が身についていることがあります。

この感覚が会社の外にまで持ち出されると、

「この場には、自分より偉い人はいない」

「周囲は、自分が気を使う必要のない相手だ」

という無意識の判断が生じます。

すると、

身体を小さく保つ必要もない。

音を抑える必要もない。

周囲の快適性を考える必要もない。

ガサッ。

ドン。

ズズーッ。

ハァ〜〜。

本人にとっては自然な動作でも、周囲から見ると、公共空間を自分の居間のように使っている状態です。

会社内の職位は、その会社が与えた役割です。

公共空間における、人間としての上位資格ではありません。

しかし、この二つを区別できないと、

自分は周囲に配慮される側であって、配慮する側ではない

という誤認が生じます。

なぜ、明確な上位者の前では静かになるのか

ここで興味深い現象があります。

普段は大きな音を出している人でも、自分より明確に上位の人物の前では、急に静かになることがあります。

社長や重要な顧客の前では、咳払いが減る。

重要な会議では、物を静かに置く。

目上の人物と食事をするときには、食事音を抑える。

まさに、借りてきた猫です。

相手によって音量や動作が変わるのであれば、その音の少なくとも一部は、完全に制御不能な生理現象ではありません。

本人には抑える能力があります。

ただし、

その能力を使う必要のある相手と、使わなくてよい相手を選別している

可能性があります。

もしそうなら、それは、

行儀を環境調整ではなく、序列への服従として身につけてきた

ことの表れかもしれません。

問題は、公共空間にいる見知らぬ人々を、

「自分が配慮しなくてもよい存在」

として扱ってしまうことです。

周囲が黙っていることは、容認を意味しない

不快な音を出す本人が、自分の行動に気づかない大きな理由は、誰からも注意されないことです。

しかし、周囲が何も言わないのは、その音を不快に感じていないからではありません。

単に、注意する方が面倒だからです。

見知らぬ中高年男性に、

「鼻をすする音がうるさいです」

「ため息を少し抑えてください」

「コップをもう少し静かに置いてください」

などと伝える人は、ほとんどいません。

職場でも同じです。

相手が年長者や上司であれば、注意することで人間関係が悪化する可能性があります。

わざわざ危険を冒してまで、本人の行動改善に協力する理由はありません。

そこで周囲は黙ります。

席を離れます。

会話を減らします。

必要最低限しか関わらなくなります。

しかし本人は、何も言われないことを、

「誰も気にしていない」

「自分には問題がない」

と解釈します。

実際には、苦情を言われる段階を通り越して、静かに人が離れているだけかもしれません。

沈黙は、承認ではありません。

ときには、

その人を改善させようとすること自体を、周囲が諦めた結果

でもあります。

メタ認知とは、自分を他人の位置から眺める能力である

外部から注意される機会が減った人ほど、自分の行動が周囲にどう受け取られているかを、自分で考えなければなりません。

そのために必要なのが、メタ認知です。

自分の咳払いは、周囲にはどれくらいの音量で聞こえているのか。

自分の足音や食事音は、静かな場所でどれほど目立つのか。

自分のため息や物を置く音は、他人にはどう受け取られているのか。

こうした問いを自分に向けられる人は、注意されなくても行動を修正できます。

反対に、メタ認知が働かない人は、

「自分は気にならない」

という事実を、

「他人も気にならない」

へすり替えてしまいます。

さらに厄介なのが、

「細かいことを気にしない俺は、器が大きい」

という自己評価です。

しかし、自分が出す不快な音を気にしないことと、器が大きいことには何の関係もありません。

自分に向けられた不快に寛容なのは大らかさですが、自分が他人に与えている不快に無頓着なのは、想像力の不足です。

油断したときに「素のOS」が出る

人は、緊張しているときには自分を取り繕えます。

重要人物との会食なら、食べ方に注意します。

大切な面接なら、椅子にも静かに座ります。

初対面の人の前なら、物を乱暴に置かないでしょう。

しかし、人間の本当の習慣が出るのは、むしろ油断したときです。

食事をしているとき。

待合室にいるとき。

電車に座っているとき。

職場の休憩室にいるとき。

誰も自分を評価していないと思っているとき。

こうした場面では、意識的な自己演出が弱くなります。

そこで現れるのが、その人の「素のOS」です。

口を閉じて食べる。

食器を静かに扱う。

ドアを静かに閉める。

足音を必要以上に立てない。

咳をするときには少し周囲へ配慮する。

誰にも命令されていないのに、自然にそうできる人がいます。

一方で、監視する人がいなくなった瞬間に、

クチャクチャ。

ドン。

ズズーッ。

ハァ〜。

と出力が解放される人もいます。

私は、こうした無意識の立ち居振る舞いには、その人の世界観がかなり滲み出るように思います。

人間の品位は、意識的に「ちゃんとしている」ときより、

誰にも見られていないと思っているときに現れる。

その人が何を知っているかという意味での知性ではありません。

自分と他人を同じ空間に配置し、

自分の行動が周囲にどう作用するかを想像し、

必要に応じて自分を調整する。

そうした実践的な知性や、身体にまで染み込んだ教養が、油断した立ち居振る舞いには表出するのではないでしょうか。

気配を消すことは、弱さでも服従でもない

「周囲に合わせる」

「自分の存在感を小さくする」

ということを、卑屈さや迎合として嫌う人がいます。

自分の好きなように振る舞うことこそ自由であり、

場に合わせることは、

「人の顔色をうかがっている」

「権威に媚びている」

「自分を殺している」

と考えるわけです。

しかし、私は逆だと思います。

周囲を読み、必要なら自分の出力を下げる。

必要なら前へ出る。

必要なら静かに背景へ溶け込む。

自分の存在を必要に応じて目立たなくすることは、古くから重要な適応能力の一つです。

大声を出したいから大声を出す。

足音を立てたいから立てる。

食べたいように食べる。

話したいから話す。

一見すると自由に見えます。

しかし、それしかできないのであれば、その人は自分の衝動に従っているだけです。

本当に自由な人は、

出すことも、出さないこともできる。

前に出ることも、背景へ溶け込むこともできる。

つまり、

自分の存在感そのものを調整できる。

私は、こちらの方がはるかに自由度の高い状態だと思います。

迎合とは、自分の判断基準を相手へ渡すことです。

適応とは、自分の判断基準を持ったまま、その場に最も適した行動を選ぶことです。

「気づいていない人」と「控える必要を感じていない人」

不快音を出す人には、大きく分けて二つの型があります。

一つは、自分が音を出していることに気づいていない人です。

鼻すすり、咳払い、ため息、独り言などが長年の習慣になり、自分の意識に上らなくなっています。

これは、自分の行動を外側から見るメタ認知の問題です。

もう一つは、音を出していることには気づいているものの、控える必要を感じていない人です。

「これくらい構わない」

「周囲が我慢すればよい」

「自分が気を使うような相手ではない」

と考えているため、抑えようとしません。

こちらは、他者への配慮と序列認識、そして「調整」をどう理解しているかの問題です。

前者には認識がありません。

後者には、認識はあっても抑制の必要性がありません。

さらに後者の一部には、

自分を抑えること自体を、誰かへの服従だと感じている

可能性すらあるのではないでしょうか。

不快な音は、存在感の放出でもあるのか

もう一つ、私がときどき感じることがあります。

大きなため息。

独り言。

物を強く置く音。

飲み物を飲んだ後の「っはぁ〜〜」。

こうした音の中には、単なる習慣だけではなく、無意識に自分の存在感を外へ放出しているように見えるものがあります。

「ここに俺がいるぞ」

という通知のように聞こえることすらあります。

もちろん、不快な音のすべてをこのように説明するつもりはありません。

身体的な要因や長年の習慣だけで説明できるものも多いでしょう。

ただ、静かに一人で居ることへの耐性と、こうした存在感の放出には、何らかの関係がある人もいるのではないか。

これは、あくまで私の人間観察上の仮説です。

静かに一人で居られる人は、音を出さなくても自分の存在が消えるわけではないと分かっています。

孤独と共生し、静かにその場に居る力については、別記事で詳しく考察しています。

孤独と共生する訓練|中高年で再会する孤独

不快な音を出す人とは、どう付き合えばよいのか

不快な音を頻繁に出す人を、こちらが変えるのは簡単ではありません。

本人は、自分の行動を問題だと認識していないことが多いからです。

しかも、問題を指摘すると、

「そんな細かいことを気にする方がおかしい」

「神経質すぎる」

「昔は誰もそんなことを言わなかった」

と、こちらの感覚を問題にされることがあります。

職場などで、どうしても伝える必要がある場合は、人格ではなく具体的な行動だけを指摘した方が安全です。

「うるさい人ですね」ではなく、

「会議中の咳払いが録音に入ってしまうので、少しだけ抑えていただけますか」

と伝えます。

しかし、注意する義務がない関係なら、最善策は距離を取ることです。

適当に相槌を打ち、深入りせず、軽く会釈して、静かに離れます。

「あなたはここでは上位ではありませんよ」と理解を促す方法も、理論上は可能です。

しかし、難易度が高いうえに、失敗したときのリスクが大きすぎます。

それよりも、

「ああ、そういう序列OSで動いているのだな」

といったん観察対象として捉えてしまう方が、こちらの精神衛生には有効です。

不快な音を、毎回まともに人格攻撃として受け止める必要はありません。

その人の内部にある、補正されない行動様式が外へ漏れているだけです。

自分も猿山の一員である

ここまで他人について書いてきましたが、最も重要なのは、自分自身も例外ではないということです。

私は中高年男性です。

つまり、ここまで観察してきた男性集団の外に自分を置いているわけではありません。

私自身も、この猿山の一員です。

ただし、猿山の中にいる自分ごと、できるだけ外側から観察しようとはしています。

これが、私にとってのメタ認知です。

自分が出している音は、自分には気づきにくいものです。

自分の鼻すすりには慣れています。

自分のため息は自然に感じます。

自分の独り言は意味が分かるため、雑音には聞こえません。

自分の足音も、自分の食事音も、自分には驚くほど聞こえていないかもしれません。

人は構造的に、自分が発する不快刺激に鈍感です。

だからこそ、

「自分はそんなことをしていない」

と考えるより、

「自分にも、気づいていない音が一つくらいあるかもしれない」

と考える方が安全です。

中高年になっても感じのよい人は、若い頃と同じように振る舞っているのではありません。

外部から注意される機会が減った分、自分で自分を観察し、修正しています。

年齢を重ねても静かで、清潔で、立ち居振る舞いの整った人は、何も変化していないのではありません。

変化する自分を認識し、絶えず自分を更新しているのです。

私は、成熟とは、

誰にも服従する必要がなくなったときにも、自分の意思で周囲に合わせて出力を調整できること

なのではないかと思います。

誰にも叱られないから好き勝手にするのではない。

誰も見ていなくても、自分で自分を整える。

それは服従ではありません。

むしろ、自律です。

不快を発散しないための具体的な行動については、次の記事で整理しています。

不快を発散しない中高年になるための行動設計

まとめ

不快な音は、単なる癖ではなく、その人が「この場にいる誰を配慮の対象としているか」の表出でもあるように思います。

相手を変えるのは簡単ではありません。

「また始まった」と毎回腹を立てるより、

「ああ、今日も猿山観察日和だな」

と少し離れて眺めるくらいが、精神衛生にはよいのかもしれません。

ただし、私自身もその猿山の一員です。

だから他人だけではなく、ときどき自分自身にも耳を澄ませてみる。

誰にも注意されていないとき。

誰にも評価されていないと思っているとき。

自分は、どんな音を出し、どんな歩き方をし、どんなふうに物を置き、どんなふうに食事をしているのか。

猿山の中にいる自分ごと、少し離れたところから眺めてみる。

他人を観察しながら、自分の振る舞いも静かに補正する。

それくらいが、この手の音と付き合う、ちょうどよい落としどころなのだと思います。


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作成者: 理屈コネ太郎

元消化器内視鏡医・産業医。現在は社会・人間行動・構造分析をテーマに執筆活動を行う。定年退職後はヨット・ボート・クルマなど趣味と構造研究の日々を過ごす。

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