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第0章|本記事の性質と位置づけ
本記事は、持ち家 vs 賃貸論争に関する四部作の第三部です。
第一部では、
「総支出額の比較」による議論が、なぜ腑に落ちないのかを整理しました。第二部では、
ファイナンスの視点から見たとき、多くの場合に賃貸を基準に考えることが合理的である、という結論を示しました。
しかし、ここまで合理性を理解しても、なお残る事実があります。
それでも多くの人は、家を持ちたがるという事実です。
本記事では、この点を
「非合理」「思い込み」「誤解」と片づけるのではなく、
人の心の自然な働きとして観察していきます。
これは、持ち家を擁護する記事でも、賃貸を否定する記事でもありません。
合理性では測りきれない「所有に傾く心理」の正体を、思考実験を通して探る記事です。
第1章|合理性を理解しても、人は家を持ちたがる
第二部で示したとおり、
ファイナンスの視点から整理すれば、
平均的な条件にある多くの人にとって、賃貸を基準に考えることは合理的です。
この点について、
細かな数式や前提条件は分からなくても、
多くの人は 嗅覚的に 理解しています。
持ち家は身動きが取りにくい
ローンは長期の拘束になる
将来の変化に弱い
それでも、人は家を持ちたがります。
この事実は、
人が合理性を誤解しているからではありません。
そこには、無視できない必然性があると考える方が自然です。
ここで、ひとつ重要な視点を挟んでおきます。
人が持ち家を選ぶ行為は、
将来を最適化するための選択というよりも、
不確定な要素を早めに閉じるための選択として理解した方が、心理的には自然です。
人は、不確実な状態が長く続くと、
判断を続けること自体に強い認知的負荷を感じます。
「まだ決めなくてよい」「いつでも変えられる」という状態は、
自由であると同時に、常に思考を要求される状態でもあります。
持ち家は、
「ここで決めた」「もう迷わなくてよい」という状態を作り、
不確定要素を閉じることで、認知負荷を大きく下げます。
これは非合理な行動ではありません。
不確実な世界を生き延びるために人間が獲得してきた、
きわめて基本的な生存戦略の一つです。
この前提を置いたうえで、
次の思考実験を見ていきます。
第2章|思考実験①
一億円の都心駅近持ち家 vs 地方のお屋敷 vs キャッシュ一億円
ここで、ひとつ目の思考実験をしてみます。
あなたは、次の三つの選択肢のいずれかを選べるとします。
一億円の都心駅近・新築持ち家
一億円の自動車が不可欠な地域に建つ、お屋敷のような持ち家
住居を固定せず、キャッシュ一億円をそのまま保有する
どれが得か、という判断はいったん脇に置いてください。
ここでは、それぞれを想像したときに、心がどう反応するかを観察します。
都心駅近の持ち家が呼び起こす感覚
都心駅近の持ち家は、
社会との接続や情報への近さを想起させます。
移動のストレスが小さい
書店や図書館、文化施設が近い
人や情報の流れに触れやすい
これは利便性の話にとどまりません。
「自分は社会の流れの中に身を置いている」という感覚を与えます。
住まいが、自分の能力や活動範囲を
静かに拡張してくれるという感覚です。
地方のお屋敷が呼び起こす感覚
一方で、地方の広大な敷地に建つお屋敷は、
まったく異なる安心をもたらします。
誰にも邪魔されない
視線や音から解放される
世界が自分のペースで流れている
これは、社会から距離を取れているという安心です。
利便性とは別種の、原初的な落ち着きに近いものと言えるでしょう。
キャッシュ一億円が呼び起こす感覚
キャッシュ一億円は、
最大の自由と可能性を意味します。
しかし同時に、
常に未決定である状態を引き受けることでもあります。
どこに住むか
いつ決めるか
本当にこのままでよいのか
これらの問いが、常に開いたままになります。
この状態を、
自由と感じる人もいれば、
落ち着かなさと感じる人もいます。
この思考実験が示していること
ここで重要なのは、
どの選択肢が正しいかではありません。
人が選んでいるのは、
資産そのものではなく、
どの種類の安心を引き受けたいかなのです。
第3章|思考実験②
建売・分譲住宅 vs 注文住宅 vs キャッシュ一億円
次に、持ち家の中身を、もう一段細かく分けて考えてみます。
分譲・建売住宅
注文住宅
キャッシュ一億円
建売・分譲住宅が与える安心
建売住宅は、
社会的に無難で、説明の要らない選択です。
「これを選んでおけば、大きく間違っていない」
という感覚が、多くの人に安心を与えます。
これは、
社会規範に適合しているという安心です。
注文住宅が与える満足
注文住宅は、
合理性よりも 自己表現 に近い選択です。
間取りを考える
素材を選ぶ
細部に価値観を反映する
世界の一部を、自分の価値観で固定したい。
その欲求に応える行為だと言えます。
キャッシュという「自己定義の保留」
キャッシュは、
自己定義をあえて固定しない選択です。
これは高度な自由ですが、
同時に判断を続ける負荷を伴います。
第4章|「素敵」という感覚がもたらす効用
ここまで見てきた安心や裁量に加えて、
人が持ち家に感じている魅力には、
もう一つ重要な要素があります。
それは、「素敵だと感じられること」です。
友人や知人に、
「家を買った」と伝えるときの、あの静かな感覚。
誰にも気にせず、
生活様式を自分なりに編み出していく感覚。
壁に掛けるアートを、
何気なくデパートで物色する時間。
床の感触、壁の色、音の響き、光の入り方。
五感に触れるすべてが、
無自覚に「自分のものだ」と信じられる感覚。
心理学的に見ると、
こうした感覚は自己効力感や環境への作用感を高め、
認知的な負荷を下げることが知られています。
重要なのは、
これらが 効用や合理性という概念では説明しきれない という点です。
それでも確実に、
人の思考力や創造性、日々の満足度に影響を与えています。
「素敵」という感覚は、
比較や計算を拒む、
きわめて人間的な効用なのです。
終章|合理性では測れない必然性
第三部の結論は、
「持ち家が正しい」ということではありません。
また、
「賃貸は冷たい選択だ」という意味でもありません。
人が持ち家を選ぶのは、
合理性を無視しているからではなく、
心が求める必然性がそこにあるからです。
その必然性は、
安心、裁量、自己定義、
そして 不確定要素を閉じ、認知負荷を下げる という作用として現れます。
これらは、
数式でも比較表でも捉えられません。
だからこそ、
この論争はいつまでも終わらず、
そして人それぞれの答えが生まれるのです。
次の第四部持ち家 vs 賃貸(4/4)|コストを引き受けて幸福を選ぶでは、
合理性と心理の両方を引き受けたうえで、
それでも自分は、どの幸福を選ぶのか
という問いに進みます。
