病気が治ったのに、以前の生活に戻れない人がいます。一方で、病気や障害を抱えたまま、自分の生活を取り戻す人もいます。
では、人間が病気から回復するとは、いったい何が回復することなのでしょうか。
この問いに気づかせてくれたのが、H.E.シゲリストの『文明と病気』という本です。
医学は、人体の構造や機能、病気の原因や治療法を研究する自然科学です。同時に、病気を抱えた人間と社会との関係を扱う、社会科学としての側面も持っています。
この本は、私にそのことを強く意識させてくれました。
医学史家ヘンリー・E・シゲリスト
Henry E. Sigerist(1891~1957)は、1891年にパリでスイス人の両親のもとに生まれた医学史家です。
1917年にスイスのチューリッヒ大学で医学の学位(M.D.)を取得し、その後、医学史研究の道に進みました。1932年から1947年まで、米国ジョンズ・ホプキンス大学の医学史研究所(Institute of the History of Medicine)の所長を務めています。
彼の著書『文明と病気』(Civilization and Disease)は、1940年にコーネル大学で行った講義をもとに、1943年に出版されました。
日本語版は松藤元の翻訳で、1973年に岩波新書から上下二巻で刊行されています。
文明と病気は、互いに影響し合う
この本が扱うのは、文明の発展と病気との関係です。
人間は文明を発展させることで、自らの生活環境を変えてきました。
都市への人口集中、産業の発展、労働形態の変化、衛生環境の整備などは、病気の発生や流行、そして人々の健康状態に影響します。
一方、病気もまた文明に影響を及ぼしてきました。
感染症の流行は社会制度や法律を変え、病気に対する人々の理解は宗教や哲学、文学や芸術にも反映されてきました。
シゲリストは、こうした文明と病気の相互作用を、歴史を通して考察しています。
ここで興味深いのは、病気が社会から影響を受けるという事実です。
病気の原因には生物学的な仕組みがあります。しかし、人間がどのような病気にかかりやすいか、その病気によってどのような生活上の困難に直面するかは、その人が生きる社会とも深く関係しています。
そして、その関係は病気からの回復を考えるとき、さらに明瞭になります。
医学の目標は、何を回復させることなのか
私が本書で最も印象を受けたのは、日本語版上巻99頁にある次の一節です。
医学の目標は病気を治癒することだけではない。むしろ社会の有用な一員としてその環境に人を適合させておくことであり、あるいは病気に襲われた時彼らをもう一度それに適合できるようにする事である。~中略~医学が根本的には社会科学であるという理由はこれである
原著66頁では、次の言葉で始まり、
“The goal of medicine is not merely to cure diseases”
そして、次の言葉で結ばれています。
“This is why medicine is basically a social science.”
この引用の中略部分では、身体機能を回復させた後も、その人が社会の中で以前の居場所、あるいは新しい居場所を見つけるまで、医学の仕事は続くという趣旨が述べられています。
この考え方には、医学の目的についての重要な視点が含まれています。
医療によって病気が治癒しても、以前の生活がそのまま回復するとは限りません。
たとえば、脳卒中によって片麻痺が残った人を考えてみます。
医学的な治療とリハビリテーションによって身体機能が改善しても、以前と同じ移動手段や仕事の仕方では生活が成り立たないことがあります。
ここでは、身体機能の回復と、生活の回復との間に、もう一つの問題が存在しています。
回復した身体機能を使って、その人が実際に生活できる環境が成立しているか、という問題です。
回復は、身体と環境との関係の中に成立する
この問題を構造的に考えてみます。
人間の生活は、身体機能、本人が行おうとする活動、そしてそれを取り巻く社会環境が結びつくことで成立しています。
同じ身体機能を持つ人でも、住居の構造、移動手段、職場の設備、勤務条件、周囲の支援によって、実際に行える活動は変わります。
つまり、身体の状態が同じでも、環境が変われば、その人が実現できる生活は変わるのです。
シゲリストは本書の中で、当時のソ連の工場において、身体に障害のある労働者の能力に合わせてコンベヤーベルトの速度を調整していた事例を紹介しています。
この事例が示しているのは、興味深いことです。
労働者の身体機能が変わったから仕事ができるようになったのではなく、仕事をする環境が変わったことによって、その労働者は仕事に参加できるようになったのです。
ここには、二つの方向があります。
一つは、治療やリハビリテーションによって、人間の身体機能を改善する方向です。
もう一つは、環境を人間の身体機能に合わせて調整する方向です。
両者は、人間が生活の中で活動できる状態を実現するという点で結びついています。
このように考えると、回復を、身体の内部だけで評価することの限界が見えてきます。
人間の生活上の能力は、身体機能と環境の組み合わせによって、実際に発揮できる範囲が決まるからです。
産業医の仕事にも通じる考え方
この問題は、産業医学の実務にもそのまま現れます。
病気で休職していた労働者が職場に復帰するとき、医学的な状態の評価に加えて、本人の希望、業務内容、労働時間、職場環境などを検討する必要があります。
以前の業務を再開できる身体状態であるかを評価することも重要ですし、現在の身体状態で遂行できる業務を考えることも重要です。
場合によっては、勤務時間を短縮したり、業務内容を変更したり、作業環境を整えたりすることで、復職が実現します。
このとき、医学的な評価と社会環境の調整とが一つの問題として結びつきます。
臨床医学による身体機能の評価を、具体的な生活の成立へとつなげる仕事です。
もちろん、この構造は労働に限られません。
家庭生活、学習、地域活動、趣味、人との交流など、本人が大切にしている活動にも同じことが当てはまります。
シゲリストが用いた「社会の有用な一員」という表現には、1943年という時代の社会観が表れています。
現代の視点から考えるなら、その人が社会にどれだけ貢献できるかという問題に加えて、その人自身が望む生活を、どのような条件のもとで実現できるかという問題が重要になります。
医学の成果が人間の生活に結びつく地点には、常にその人を取り巻く環境が存在しているのです。
現代の医学に受け継がれている視点
現在、世界保健機関(WHO)は、国際生活機能分類(ICF:International Classification of Functioning, Disability and Health)において、健康状態、心身機能、活動、参加、環境因子などを相互に関連する要素として捉えています。
2001年に採択されたこの枠組みでは、障害や生活機能を、人間の健康状態と環境との相互作用から理解します。
シゲリストの言葉を現代の概念に引き寄せて考えると、共通する問題意識が見えてきます。
疾病を診断すること、身体機能を評価すること、本人が実際にどのような生活を営めるかを考えること。
これらは、医学が人間を理解するための、互いに結びついた視点なのです。
そして、医学の社会科学的な側面を考えることは、医学が何を達成しようとしているのかを問い直すことにもつながります。
人間が回復するとは何か
医学は、病気の原因を解明し、身体の状態を改善するために発展してきました。
その成果は、検査値の改善、症状の消失、身体機能の回復などによって評価できます。
一方、人間が生活を取り戻すという成果は、その人と社会環境との関係の中に現れます。
病気が治癒しても以前の生活に戻ることが難しい人がいます。病気や障害が残っていても、環境が整うことで、自分の生活を取り戻す人がいます。
ここから、一つの命題が導かれます。
医学が扱う病気は人間の身体に生じます。しかし、医学が回復させようとする人間の生活は、身体と社会環境との関係の中に成立しています。
この命題に立つと、医学の社会科学的な側面がよく理解できます。
治療の対象となる身体と、その身体を持って生きていく人間。その両方を視野に入れることで、医学の目的がより明確になるのです。
シゲリストの『文明と病気』を読んだことは、私にとって、医学を見る視点を広げる経験でした。
医師が一人の患者を診るとき、その人の身体の中で何が起きているのかを考えます。
そして、その人がどのような生活へ戻っていくのかを考えることで、もう一つの医学の姿が見えてきます。
人間が生きる環境まで視野を広げたとき、病気を治すという行為の先に、人間の生活を回復させるという医学の目的が立ち上がってきます。
1943年に書かれた一節が、現在の私たちにも問いかけていることです。
今回は以上。
参考文献
- Henry E. Sigerist, Civilization and Disease, Cornell University Press, 1943.
- H.E.シゲリスト著、松藤元訳『文明と病気』上・下、岩波新書、1973年。
- World Health Organization, International Classification of Functioning, Disability and Health (ICF), 2001.
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