独学でボート釣りを始めるまでの私の葛藤と整理

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はじめに

私、理屈コネ太郎はこれまで、ボートを所有していながら「釣りを避けてきた」。海上散歩や無人ビーチへの上陸、カヤックやシュノーケリング、SUP-FOILといった遊びに熱中してきた。
釣りに興味がなかったわけではないが、「人間の本能」と「生命倫理」の交差点に立ったとき、どうにも自分の中で色々な事柄に整理がついていなかった。その結果として、あえて釣りと距離を置いてきたのだ。

しかし最近になって、情報収集や海上での実体験を重ねるうちに、リリース前提の釣りにまつわる倫理的な課題について自分なりの整理がついた。そこで、いよいよ本能に従って「魚との対決」を始めてみようと思うようになった。


1. 釣りに踏み出せなかった理由

私にとって釣りは、単に魚を捕ること以上の意味を持っていた。捕った魚をどうするのか…が、つねに胸の奥に刺さった棘であった。
「狩猟本能を満たしたい」という欲求は確かにある。だが同時に、「魚の命を奪いたいわけではない」という矛盾した気持ちを拭いきれなかった。

魚を釣り上げれば、当然その命を奪うことになるだろう。自分が本当にそれを望んでいるのかどうか、ずっと自問自答を繰り返してきた。
その葛藤が、私を「釣りから遠ざける最大の理由」であった。


2. リリース前提の釣りという選択肢

やがて私は「リリース前提の釣り」という選択肢に出会った。
しかしそれはそれで新たな問いを突きつけてきた。

「食べもしない魚を釣って苦しめるのは残酷だ」
「いや、自然界では敗者は死ぬのだから、リリースはむしろ優しい」

こうした相反する意見を前に、私は長らく思考の整理がつかなかった。
その経緯については別記事『リリース前提の釣りは残酷か?自然界との比較で見える視点』に詳しくまとめたが、最終的には「リリースは自然界に存在しない“敗者の生存”という例外を生む」という理解に至った。

つまりリリースは、自然の摂理から見れば異質だが、だからこそ「人間が釣りを楽しみながらも魚に生命の可能性を残す」という、人間ならではの発展解として受け入れられるのではないかと考えるようになったのである。


3. ボート遊びと釣り本能の接続

私のボートライフはこれまで、海上散歩や無人ビーチでの遊び、カヤックやシュノーケリングといった「自然の中での行為や体験を楽しむ遊び」が中心だった。
しかし、そこに「魚との対決」を加えれば、ボート遊びはさらに奥行きを持つはずだ。

釣りは「本能を満たす行為」として、これまでのボートライフを補完する。
そしてリリースを前提とすることで、「遊び」と「生命尊重」の両立が可能になる。
私はこの新しいバランスを、実際の体験を通して確かめてみたいと思っている。


4. 独学で釣りを始める決意

ヨットもボートも、私はスクールに通わず独学で身につけてきた。
だから釣りも同じように、試行錯誤を重ねて学んでいくつもりだ。遠回りもするが、それが愉しかったり、学びを与えてくれる。

正解を要領よく知る事は愉しみを削ぐこともあるのだ。

道具を選ぶ過程、初めての釣行、失敗や疑問、そのすべてを記録していく。
それは単に自分の備忘録となるだけでなく、同じように「釣りを始めたいけれど葛藤を抱えている人」にとって、何かの参考になるかもしれない。

理屈コネ太郎は「釣果を誇る記事」を書くつもりはない。
むしろ「魚と対峙しながら考える記事」を書いていきたい。
それが理屈コネ太郎らしい釣りとの向き合い方だと思っている。


5. 今後の展望

最初の挑戦は、ベイトリールを用いてのルアーキャスティングを船上からトライするつもりです。
大切なのは「どんな魚を釣ったか」よりも「魚と対峙した感覚をどう受け止めるか」だ。

これまで「釣りを避けてきた自分」が、新たに「釣りを始める自分」へと歩みを進める。
その境界線に立ついま、私はわくわくしながらも、どこか厳粛な気持ちでいる。


おわりに

私にとって釣りは「命を奪う営み」ではなく、「本能を満たす対決」である。
リリースを通じて魚に生命の可能性を残しながら、自分の内なる本能を自然の中で解放する。

これからの実践を通して、新しい気づきや整理がきっと生まれるだろう。
その過程をまた記事にして、ボート遊びの一環として共有していきたい。
今後の展開に乞うご期待。

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