孤独を愛する者よ、仲間や同志を愛せ

孤独を愛する者ほど、仲間や同志を大切にした方がよい。

孤独を愛する者は、自分の内側にある世界の見え方や違和感や問題意識を、簡単には手放せない。なぜ自分にはそう見えるのか。なぜ自分はそこに引っかかるのか。なぜ他の人が流してしまうことを、自分は流せないのか。そうした問いを抱えながら、自分にしか担えない役割へ向かうことがある。

その役割の核心は、誰にも代わってもらえない。

判断するのは自分である。行動するのも自分である。結果を引き受けるのも自分である。そこに、孤独がある。

しかし、その役割を現実に遂行しようとすると、自分一人で実行できる部分と、自分一人では実行しきれない部分が出てくる。孤独の核心は自分で担うしかないとしても、その外側には、仲間や同志、有償のプロ、場を整えてくれる人、仕事の前提を作ってくれる人の力が必要になる場合がある。

その人たちは、自分の孤独を代わりに担ってくれるわけではない。けれど、自分が自分の役割を遂行するために必要な部分を支えてくれることがある。

だから、孤独を愛する者は、仲間や同志を愛した方がよい。

Contents

孤独は人間の基本状態であり、成長の場でもある

人間は、生まれてから死ぬまで、自分の身体と意識を他者と完全に共有することができない。

どれほど深く分かり合ったとしても、自分の身体で生き、自分の意識で感じ、自分の判断で選び、自分の死を迎えるという事実は、誰にも代わってもらえない。

この意味で、孤独は人間にとって例外的な状態ではなく、基本状態である。

ただ、人はいつもそのことを意識しているわけではない。幼い頃は家族に包まれ、成長すれば友人や恋人や仕事仲間と関わり、社会の中で役割を得る。人間関係の悦びや、承認や、所属の感覚は、生来的な孤独をしばらく見えにくくしてくれる。

それは、人間にとって大切な人生の果実である。

しかし、人生が進むにつれて、人間関係や社会的な役割は変化する。親しい人との別れがある。立場の変化がある。加齢による制約もある。そうした経験を通じて、しばらく忘れていた孤独が、再び自分の前に現れることがある。

その孤独は、新しく発生した不幸というより、もともと我が身と重なっていた構造の再認識である。

この孤独観については、以前の記事「理屈コネ太郎の孤独観|孤独と付き合う事で人は成長できる」で整理した。孤独を人間の基本条件として理解できれば、孤独は自分の考えを見つめ、自分の感性を確かめ、自分が何を大切にしているのかを知るための環境になる。そこから、進歩や成長の足場も生まれる。

私が「孤独を愛する」と言うとき、それは寂しさを好むという意味ではない。

孤独を所与として受け入れ、その中に思考と自己認識の場を見出すということである。孤独を避け続けるのではなく、孤独と付き合いながら、自分の輪郭を深めていく態度のことだ。

この態度があるから、孤独を愛する者は、自分の内側にある問いから逃げにくくなる。

固有の世界の見え方は、固有の問いを生む

人には、それぞれ固有の世界の見え方がある。

何を大切にし、何に違和感を覚え、何を美しいと感じ、何を許せないと思うか。どの深さで物事を考え、どの角度から現実を見るか。そうした価値観や感性や認知の構造は、完全には他者と重ならない。

同じ出来事を見ても、見えている階層が違うことがある。ある人は目の前の出来事を見る。ある人はその背後の構造を見る。さらに別の人は、その構造を生んだ価値観や思想まで見ようとする。

その差は、単なる能力差ではない。世界観の差である。

自分の世界の見え方に誠実であろうとすればするほど、他者に完全には理解されない領域が生まれる。そこに、その人がその人であるがゆえの孤独が立ち上がる。

この孤独は、個性の核と表裏一体である。

この、自分が自分であるがゆえに生じる孤独については、以前の記事「世界の見え方が人と違うという孤独|個性の核が生む第3層の孤独」で詳しく書いた。世界の見え方が違うからこそ、他者に完全には理解されない領域が生まれる。そして、その領域に誠実であろうとすると、自分にしか担えない問いや役割が立ち上がる。

自分にしか見えないものがあり、自分にしか感じ取れない違和感があり、自分にしか考え続けられない問いがある。孤独を愛する者は、そこから目をそらしにくい。

なぜ自分にはそう見えるのか。なぜその違和感が消えないのか。なぜその問いを放っておけないのか。そのように考え続けることは、孤独を全うすることの一部である。

そして、その問いを深めていくと、やがて自分にしか担えない役割が見えてくることがある。

自分にしか担えない役割は、自分の責任で引き受けるしかない

自分にしか見えないものは、自分にしか担えない役割へつながることがある。

誰も気づいていない構造が見える。誰も言葉にしていない違和感が残る。誰も問題にしていないことが、自分には問題として見える。誰も深く掘っていない問いを、自分だけが掘り続けてしまう。

それは、単なる気まぐれではない。

自分の価値観、感性、認知の構造が、その問いを自分の前に立ち上げているのである。

だから、その問いを本当に引き受けるなら、最後は自分の責任で進むしかない。他の誰かが同じ深さで見ているとは限らない。他の誰かが同じ違和感を持っているとも限らない。他の誰かが同じ重さで、その問いを担ってくれるとも限らない。

ここに、自分にしか担えない役割が生まれる。

航海者には航海者の判断がある。ドライバーにはドライバーの判断がある。書き手には書き手の言葉がある。仕事人には仕事人の責任がある。それぞれの場で、最後に自分の名において引き受けるしかないものがある。

孤独を愛する者が、自分にしか担えない場へ向かうのは、孤独そのものに酔いたいからではない。自分が自分であるがゆえに見えてしまうもの、感じてしまう違和感、放っておけない問いがあるからである。

その問いを全うしようとすると、最後は自分で引き受ける場に立つことになる。

そこに、本当の孤独がある。

孤独の核心は、誰にも代わってもらえない

孤独の核心では、判断も行動も結果も自分で引き受けるしかない。

船の上で風を読み、波を見て、進むか戻るかを決めるのは自分である。コース上でブレーキをどこまで詰め、アクセルをどこで踏み、危険を感じたときにどこで引くかを決めるのは自分である。文章を書くときに、どの言葉を選び、どこまで踏み込み、どの責任を引き受けるかを決めるのも自分である。

その核心部分は、他者には代行できない。

誰かが代わりに判断してくれるわけではない。誰かが代わりに行動してくれるわけではない。誰かが結果を肩代わりしてくれるわけでもない。

だからこそ、それは孤独である。

ただし、役割を現実に遂行するには、核心部分だけで完結しない場合がある。自分一人で実行できる部分と、自分一人では実行しきれない部分がある。

孤独そのものは一人で引き受けるしかない。しかし、その孤独を現実の行為として成立させるためには、他者の仕事や協力が必要になる場合がある。

この区別を間違えない方がよい。

仲間や同志は、孤独の核心を代わりに担ってくれる人ではない。有償のプロも、自分にしか担えない役割そのものを代行してくれる人ではない。

それでも、その人たちの仕事や協力があるから、自分が自分の役割を遂行できる場合がある。

自分一人で実行しきれない部分には、他者の仕事が必要になる

一人で海に出る時間は、海に出る前の多くの仕事によって支えられている場合がある。

ボートやヨットで沖へ出れば、舵を取るのは自分である。風を読み、波を見て、進むか戻るかを決めるのも自分である。周囲に陸地が見えない海域では、判断の結果を自分で引き受けるしかない。

その時間は、深く孤独である。

しかし、海に出るまでには、船を整える人がいる。メンテナンスをしてくれる人がいる。上架や下架に関わる人がいる。艤装や機関の状態について相談に乗ってくれる人がいる。自分では見落としていた不具合を指摘してくれる人がいる。

その人たちの仕事に支えられて、海の上で一人になれる場合がある。

クルマでサーキットを走るときも同じである。

コース上でハンドルを握るのはドライバーである。ブレーキをどこまで詰めるか。アクセルをどこで踏むか。荷重をどう移すか。危険を感じたとき、どこで引くか。その判断は、最後はドライバー自身が引き受ける。

しかし、その走りの手前には、整備する人の仕事がある。タイヤやブレーキや足まわりを確認する人がいる。部品の状態を見てくれる人がいる。必要な作業を組み、車を安心して走れる状態に仕上げてくれる人がいる。

その人たちの仕事に支えられて、ドライバーはコース上で車を信じられる場合がある。

書き手にも、言葉を届ける場が要る。仕事人にも、自分の役割が意味を持つ環境が要る。自分の孤独が価値へ変わるには、それを発揮できる前提が必要になる。

その前提は、自分一人では整えきれない場合がある。

だから、孤独を愛する者は、自分一人で担う核心だけでなく、その外側にある他者の仕事も軽く見ない方がよい。

有償のプロも、それぞれの持ち場で孤独を引き受けている

支えてくれる人は、無償の仲間や同志だけに限らない。

有償のプロとして関わってくれる人もいる。整備士、技術者、専門家、現場担当者、管理者、制作に関わる人、相談に乗ってくれる職業人。そうした人たちは、報酬を受け取り、役割として仕事をしている。

しかし、有償であることは、その仕事を単なる取引に還元する理由にはならない。

プロの仕事には、外から見えにくい判断がある。見落とせない確認がある。自分の技術と責任に照らして、手を抜けない部分がある。報酬と作業項目だけでは説明しきれない注意や工夫がある。

もちろん、常に理想的な仕事が返ってくるわけではない。だが、有償のプロが、報酬を受け取りながらも、自分の職業的な誇りや責任に照らして、報酬以上の質で支えてくれることはある。

そのとき、その人もまた、その人の持ち場で孤独を引き受けている。

整備する人には、整備する人の孤独がある。確認する人には、確認する人の孤独がある。専門的な判断を下す人には、その判断を下す人の孤独がある。

間違えれば危険が生じるかもしれない。見落とせば、後の場面で大きな問題につながるかもしれない。依頼者からは見えない部分で、品質や安全を支えているかもしれない。

その仕事は、単なる作業ではない。
その人がその人の持ち場で、自分の技術と責任を引き受けているということである。

だから、孤独を愛する者は、有償のプロの仕事も軽く見ない方がよい。

金を払っているのだから当然だ、という態度だけでは、見えないところにある仕事の重みを取り逃がす。報酬は必要な交換条件である。しかし、仕事の質は、相手の気持ち、誇り、注意力、関係性によっても変わる。

プロの仕事にも、その人なりの孤独がある。

それを尊重できる人の方が、自分の役割を遂行するための条件を、より丁寧に整えられると思う。

やりたくない仕事は、有償でも品質が下振れしやすい

人に何かを頼むとき、相手の気持ちは仕事の質に影響する。

この点については、以前の記事「人に頼むと仕事品質が下振れする理由|「やりたい・やってもいい・やりたくないの原理」」で整理した。そこで書いた通り、仕事を頼むときには、相手の気持ちを大きく「やりたい」「やってもいい」「やりたくない」の三つで考えると見通しがよくなる。

いつも「やりたい」と思ってもらえるなら、それはとてもありがたい。こちらを応援したい、力になりたい、支えたいと思ってくれる人がいるなら、その関係は大切にした方がよい。

ただ、現実には、すべての人がいつもそこまで強い気持ちで関わってくれるわけではない。

だからこそ、「条件が合えば手伝ってもよい」と思ってもらえることには、大きな意味がある。あの人ならできる範囲で力になってもよい。普段からきちんとしているから、今回は協力してもよい。無理のない条件なら関わってもよい。そのくらいの素朴な信頼が、実際には大きな支えになる。

反対に、普段から相手を雑に扱っていれば、人の気持ちは「やりたくない」側へ傾く。

仕事としては引き受けてくれるかもしれない。約束はしてくれるかもしれない。外形的には合意が成立するかもしれない。

しかし、気持ちがそちらに傾いていれば、成果の質は下振れしやすい。確認も増える。摩擦も増える。余計な手間も増える。

これは、相手の性格が悪いという話ではない。人間とはそういうものだ、という話である。

有償のプロであっても、気持ちの位置や職業的誇りは仕事の質に影響する。報酬を受けているからこそ、プロとして自分の責任を引き受けている。その持ち場の孤独を軽く見ない方がよい。

孤独に気を取られすぎる人は、この構造を見落としやすい。

自分は孤独である。自分は誰にも理解されない。自分は自分の役割を一人で担っている。その感覚が強くなりすぎると、支えてくれる人の時間や技術や好意を、当然のものとして受け取ってしまうことがある。

しかし、相手を大切に扱わない人は、いざというときに支えられにくくなる。支えられにくくなれば、自分にしか担えない役割を現実に遂行しにくくなる。結果として、本当に孤独でなければ立ち向かえない場に立ちにくくなる。

だから、孤独を愛する者ほど、孤独ではない時間の振る舞いを丁寧にした方がよい。

仲間や同志を愛するとは、相手の持ち場を大切に扱うことである

仲間や同志を愛するということは、相手の持ち場を大切に扱うことでもある。

大げさに持ち上げたり、媚びたり、過剰に感動を演出したりする必要はない。ただ、相手の時間、技術、労力、好意を、当然のものとして消費しない。

依頼するときは相手の都合を考える。曖昧な頼み方をしない。約束を守る。無理をさせたなら、その重さを忘れない。助けてもらったら礼を言う。結果が出たら報告する。相手の仕事や技術に敬意を払う。

こうしたことは、処世術というより、関係を現実に整えるための基本だと思う。

感謝も同じである。

心の中で思っているだけでは、相手には伝わらないことがある。だから、助けてもらったなら、助かったと伝える。整えてもらったなら、安心できたと伝える。支えてもらったなら、その支えが意味を持ったと伝える。

たとえば、「助かりました」「おかげで安心して出られました」「いい状態に仕上げてくれてありがとうございました」「無事に帰ってきました」「次もよろしくお願いします」と、よいタイミングで、過不足なく伝える。

感謝は、相手を気持ちよくさせるためだけのものではない。自分がその支えを当然だと思っていないことを、関係の中に明確に置くための言葉でもある。

こうした積み重ねがあるから、いざというときに人は協力してくれやすくなる。

あの人なら少し力になってもよい。あの人の頼みならできる範囲で応えたい。あの人が本気でやるなら支えたい。そう思ってもらえる関係は、一朝一夕には生まれない。

普段の言葉遣い、約束の守り方、感謝の伝え方、相手の仕事への敬意。そのすべてが少しずつ積み重なっていく。

孤独を全うするために必要な条件は、孤独ではない時間の振る舞いによって整えられることがある。

孤独を愛する者は、支えてくれる人を軽んじない方がよい

孤独を愛する者は、自分の孤独だけを見つめすぎない方がよい。

自分にしか見えない世界があり、自分にしか感じられない違和感があり、自分にしか考え続けられない問いがあり、自分にしか引き受けられない結果がある。それはたしかに尊い。

しかし、その孤独を現実に遂行するには、自分一人で実行できる部分と、自分一人では実行しきれない部分がある。仲間や同志がいる。有償のプロがいる。場を整えてくれる人がいる。見えないところで仕事の前提を作ってくれる人がいる。

その人たちは、自分の物語の背景ではない。自分の孤独を成立させるための部品でもない。自分の孤独を邪魔する存在でもない。それぞれの持ち場で、自分にしか担えない責任を引き受けている人たちである。

だから、孤独を愛する者よ、仲間や同志を愛せ。

完全に理解されることを求めすぎなくてよい。しかし、支えてくれる人への敬意は忘れない方がよい。

孤独の核心では、誰も代わってくれない。判断するのも、行動するのも、結果を引き受けるのも自分である。

だからこそ、その孤独は本物である。

そして、その本物の孤独を現実に遂行するために、周囲の条件を整えてくれる人たちがいる場合がある。

その人たちを大切にすることは、孤独を弱めることではない。
孤独を愛する者が、孤独に誠実であるための態度である。


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筆者紹介は理屈コネ太郎の知ったか自慢|35歳で医師となり定年後は趣味と学びに邁進中

作成者: 理屈コネ太郎

元消化器内視鏡医・産業医。現在は社会・人間行動・構造分析をテーマに執筆活動を行う。定年退職後はヨット・ボート・クルマなど趣味と構造研究の日々を過ごす。

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