報道とジャーナリズムの起源|商業報道・偏向報道・SNS時代まで歴史から考える

新聞やテレビなどの既存報道機関について、「偏向している」という批判を目にすることがあります。

一方、SNSには真偽不明の情報や偽画像、誤った解説なども大量に流れています。それなら、専門の記者や編集者が情報を確認してから発信する新聞やテレビの方が、SNSより信頼できるのでしょうか。

この問題は、単純に「新聞とSNSのどちらが正しいか」という比較では十分に理解できません。

本稿では、現在の情報環境について、まず次のような結論を置いてみたいと思います。

近代ジャーナリズムは、情報の信頼性を高める代わりに情報選択を少数の職業人へ集中させた。SNSはその情報選択権を大衆に開放した代わりに、真偽判定まで利用者側へ戻した。

なぜ、このように考えられるのでしょうか。

その理由を理解するためには、現在の新聞やテレビだけを見るのではなく、そもそも報道とは何だったのか、新聞はなぜ生まれたのか、ジャーナリズムはいつ成立したのか、そして報道が商業化・職業化していった歴史を振り返る必要があります。

報道とジャーナリズムは同じものではない

最初に、いくつかの言葉を区別しておきます。

本稿では「報道」を、社会で起きた出来事や事実について情報を収集し、それを他者へ伝える行為という広い意味で使います。

この意味では、報道は新聞社やテレビ局だけが行うものではありません。

政府が災害状況を発表することも、企業が事故について公表することも、事件の目撃者が現場の映像を公開することも、広い意味では情報を社会へ伝える行為です。

一方の「ジャーナリズム」は、単に情報を伝えるだけではありません。

本稿では、公共的な意味を持つ情報について、取材、確認、検証、選択、編集を行い、一定の職業倫理に基づいて社会へ提供する営みをジャーナリズムと考えます。

現在でもロイターは、正確性、独立性、誠実性、偏見からの自由を報道の基本原則として掲げ、誤りの訂正、反対側への取材、ニュースへの記者個人の意見の混入を避けることなどを職業上の基準としています。日本新聞協会の新聞倫理綱領にも「正確と公正」「独立と寛容」などが明記されています。

つまり、

情報を伝えること=報道

であるとしても、

すべての報道=ジャーナリズム

ではありません。

報道はジャーナリズムよりはるかに古い

人間は新聞が発明されるはるか以前から、自分が直接見ていない出来事について知る必要がありました。

古代ローマでは、紀元前1世紀に「Acta Diurna」と呼ばれる公的な告知が掲示され、政治上の出来事や裁判、出生、死亡などさまざまな情報が伝えられていました。現在の新聞と同じものではありませんが、社会で起きた出来事を継続的に知らせる仕組みという意味で、新聞の祖型の一つとされています。

その後も、商人や外交官、政治家などの間では手書きのニュースが流通しました。

重要なのは、この段階の情報伝達が、現在私たちが考える「中立的なジャーナリズム」を目的としていたわけではないことです。

政府は統治のために情報を伝えます。

商人は商売のために情報を必要とします。

政治勢力は自らの考えを広めようとします。

つまり、報道の起源と中立報道の起源は同じではありません。

近代的な新聞は17世紀に登場した

印刷技術が普及すると、それまで手書きで複製されていたニュースを大量に印刷できるようになります。

1605年、ストラスブールの印刷業者ヨハン・カロルスが発行した『Relation aller Fürnemmen und gedenckwürdigen Historien』は、定期的に印刷・発行された世界最古の新聞として広く認められています。それ以前にカロルスは手書きニュースを購読者に提供していましたが、それを印刷物へ転換しました。フランス国立図書館の記録でも創刊年は1605年、週刊として記録されています。

ここで重要なのは、新聞が単に「真実を社会に届ける崇高な制度」として生まれたわけではないことです。

情報には需要がありました。

その需要に対して継続的にニュースを提供することが、事業として成立し始めたのです。

日本でも江戸時代には「かわら版」などの情報印刷物が存在しましたが、国立国会図書館は、現在につながる日本の新聞の歴史を幕末から整理しています。1862年には日本語新聞の初期例である『官板バタヒヤ新聞』が刊行され、その後民間新聞が登場し、明治期には日刊新聞へ発展していきました。

商業報道とは何か

ここで「商業報道」という言葉を定義しておきます。

商業報道は必ずしも単一の厳密な学術用語ではないため、本稿では、

報道活動を継続的な事業として行い、販売、購読、広告、配信その他の収益によって報道組織と取材活動を維持する仕組み

という意味で使います。

商業報道というと、「金儲けのために報道する」という否定的な印象を持つかもしれません。

しかし、歴史はそれほど単純ではありません。

むしろ商業化は、報道を政治勢力から独立させる役割も果たしました。

商業化は報道を政治から独立させた面もある

近代以前から19世紀にかけての新聞には、政党や政治勢力と強く結びついたものが少なくありませんでした。

報道機関が自力で十分な収入を得られなければ、政治家、政党、有力者など資金を提供してくれる主体への依存が生じます。

ところが新聞市場が大きくなり、販売収入や広告収入によって経営できるようになると、特定の政治勢力から距離を取ることも可能になります。

19世紀米国の新聞を調べた研究では、広告収入を得やすい地域ほど、新聞が政党から独立している可能性が高かったことが示されています。

1830年代以降に発達した米国の「ペニー・プレス」も象徴的です。

低価格で多数の一般読者に販売し、広告収入を重要な経営基盤とする新聞が広がりました。従来の党派新聞とは異なり、政治的に独立した新聞も増えていきます。

したがって、

商業化=ジャーナリズムの堕落

と単純に考えることはできません。

商業化によって、

政治権力への経済的依存

から離れることが可能になったからです。

しかし同時に、別の依存が始まります。

市場への依存です。

政治への依存から市場への依存へ

新聞を政治家が直接支えているなら、政治家の意向が報道に影響する可能性があります。

しかし読者と広告によって支えられる新聞にも、

「売れるか」

「読まれるか」

という問題があります。

新聞なら発行部数。

ラジオやテレビなら聴取率や視聴率。

インターネットならページビューやクリック率。

動画なら再生回数や視聴時間。

報道が事業である以上、誰にも読まれないニュースばかりを作り続けることはできません。

ここには、ジャーナリズムが現在まで抱えている根本的な緊張があります。

社会にとって重要な情報

と、

人々が見たがる情報

は必ずしも一致しないからです。

職業報道者とは誰なのか

新聞が大規模な事業になると、ニュースを継続的に収集・編集する人々が必要になります。

そこで報道が職業化していきます。

本稿では「職業報道者」を、

情報の収集、取材、確認、選択、編集、報道などを継続的な職務として行い、その活動について職業上または組織上の責任を負う人

と考えます。

ここで「新聞社に所属している人=ジャーナリスト」としてしまうと、現代では問題が生じます。

新聞社にも記者、編集者、カメラマン、論説委員、アナウンサー、番組制作者など異なる仕事があります。

逆に、新聞社やテレビ局に所属していなくても、独自に現場を取材し、資料を確認し、関係者へ取材し、誤りを訂正しながら継続的に情報を発信する個人もいます。

その人がYouTubeやSNSを利用していたとしても、その活動内容によってはジャーナリズムと呼ぶことができるでしょう。

つまり重要なのは、所属先よりも何をしているかです。

職業ジャーナリズムは「人間は偏る」ことへの対策でもあった

報道が職業化すると、取材方法や記事作成にも一定の手続きが形成されます。

誰が言ったのかを明示する。

一つの証言だけで断定しない。

反対側の当事者にも取材する。

事実と記者の意見を区別する。

誤った場合には訂正する。

特に米国では、19世紀末から20世紀初頭にかけてジャーナリズムの職業化が進む中で「客観性」が職業規範として形成され、1920年代には明示的な職業理念として定着していきました。

これは非常に重要な進歩だったと思います。

人間が完全に無思想・無感情になることはできません。

だから、

記者本人を完全に中立な人間にするのではなく、手続きによって偏りを小さくする。

それが近代ジャーナリズムの一つの回答だったと考えられます。

現在のロイターの報道規範にも、この考え方ははっきり残っています。正確さを速度より優先し、反対側にもコメントを求め、誤りは明示的に訂正し、個人的な政治的立場をニュースへ持ち込まないことが求められています。

しかし情報を選ぶ権限は少数者へ集中した

ここで近代ジャーナリズムのもう一つの側面が現れます。

職業的な記者と編集者が情報を確認することで、記事単体の信頼性は高くなります。

しかし、その代わりに、

何をニュースとして社会へ流すのか

を決める権限も、報道機関へ集中します。

世界では毎日、無数の出来事が起きています。

新聞はそのすべてを掲載できません。

テレビもすべてを放送できません。

そこで、

事件が起きる

記者が取材対象を選ぶ

取材した情報から記事を作る

デスクが採否を判断する

編集部が掲載位置を決める

見出しや写真を選ぶ

読者へ届く

という複数の選択が行われます。

このようなニュースの選択過程は、メディア研究では「ゲートキーピング」と呼ばれてきました。現在の研究でも、ニュース組織は大量の出来事の中から何を社会へ流通させるかを選択する主体として説明されています。

新聞紙面や放送時間が有限である以上、選択そのものは避けられません。

問題は、選択する必要があることではなく、選択する者に大きな権限が発生することです。

偏向報道は「嘘を報道すること」だけではない

偏向報道というと、事実と違う内容を流すことを想像しがちです。

しかし偏向は、もっと複雑です。

例えば100件の事実があるとして、その中から10件だけを選び、その10件については完全に正確な記事を書いたとします。

個々の記事には嘘がありません。

それでも、いつも同じ種類の10件だけを選び続ければ、読者が認識する社会の姿は現実全体とは違ってくる可能性があります。

つまり、

事実の正確性

と、

現実全体をどの程度正確に再現しているか

は別の問題です。

ニュースの偏りには、少なくとも、

何を報道するかという選択、

何を報道しないかという選択、

誰の発言を取り上げるか、

どの部分を見出しにするか、

どの写真を使うか、

どの程度大きく報道するか、

どのような言葉で説明するか、

といったさまざまな段階があります。

しかも最も気づきにくいのは、報道されなかった情報です。

掲載された記事の誤りなら読者も検証できます。

しかし、編集部が採用しなかった情報は、そもそも読者の目に入りません。

したがって偏向報道を考えるときには、

「この記事には嘘があるか」

だけではなく、

「なぜこの出来事は報道され、別の出来事は報道されなかったのか」

という問いも必要になります。

政治的偏向だけが偏向ではない

偏向報道という言葉は、保守かリベラルか、政権寄りか反政権か、といった政治的な意味で使われることが多いと思います。

しかし報道を偏らせる要因は政治思想だけではありません。

例えば、

殺人事件はニュースになります。

しかし何も事件が起きなかった平穏な一日はニュースになりません。

企業の大規模倒産はニュースになります。

普通に営業を続けている多数の企業はニュースになりません。

政治家同士の激しい対立はニュースになります。

長期間かけて地味に合意形成が進んだことは、目立ったニュースにならないかもしれません。

つまりニュースには、

珍しい

対立している

驚く

怒りを呼ぶ

映像として面白い

といった性質が選ばれやすい傾向があります。

これらの記事がすべて事実であっても、毎日それだけを見続ければ、現実以上に社会が危険で、対立的で、異常な場所に見える可能性があります。

これも広い意味では、ニュース選択によって生じる偏りです。

『Anchorman 2』が描いた報道とエンターテインメントの境界

この問題を非常に分かりやすく風刺した映画があります。

米国映画『Anchorman』シリーズです。

特に2013年の『Anchorman 2: The Legend Continues』では、主人公ロン・バーガンディたちが1980年代の24時間ニュース局へ移り、視聴率競争に巻き込まれていきます。

監督のアダム・マッケイ自身、続編の中心的な発想は1980年前後に登場した24時間ニュースであり、そこからニュースが視聴率や娯楽性に強く引っ張られていく変化を風刺したと説明しています。

映画で描かれる問題は単純です。

「人々が知る必要のあること」ではなく、

「人々が見たいものをニュースにすればよい」

という方向へ進むのです。

カーチェイス、動物、スポーツ、扇情的な事件。

視聴率は上がります。

ここには、商業報道の根本的な問題が表現されています。

社会的重要性と視聴者の関心は一致しない

報道する価値を二つの軸で考えると分かりやすくなります。

人々の関心が高い人々の関心が低い
社会的重要性が高い最優先で報道しやすいジャーナリズムの重要な役割
社会的重要性が低いエンターテインメント化しやすい通常は大きく報道されない

難しいのは、

社会的には重要だが、面白くない情報

です。

予算。

法制度の細かな変更。

行政手続き。

インフラ整備。

統計。

外交交渉。

こうした情報は社会に大きな影響を与えるにもかかわらず、カーチェイスほど人の目を引きません。

だからこそ、職業ジャーナリズムには、

人々がいま見たがっているものだけではなく、人々が知っておくべきことを探し、理解できる形にして伝える

という役割があります。

商業報道がエンターテインメントと完全に同じものになってしまえば、この役割が弱くなります。

SNSは情報発信のゲートを壊した

ところがインターネット、特にSNSの登場によって、この構造が大きく変わりました。

かつて一般人が社会へ情報を発信するためには、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなど限られた流通経路を通る必要がありました。

報道機関が採用しなければ、多くの人には届きません。

SNSでは違います。

事件の目撃者が、その場で映像を公開できます。

事故の当事者が直接説明できます。

研究者が論文やデータを示せます。

法律家が報道内容について法的な誤りを指摘できます。

医師が医学的説明の間違いを指摘できます。

政府資料や統計原表へ誰でもリンクできます。

さらに新聞やテレビの報道について、別の専門家が検証することもできます。

つまりSNSは、

個人を情報の受信者から発信者へ変えただけではありません。

同時に、

個人を報道の監視者にもした

のです。

ゲートキーピングからゲートウォッチングへ

この変化について、メディア研究者Axel Brunsは「gatewatching」という概念を提示しています。

従来型のジャーナリズムでは、編集者が情報の入口を管理し、「何を通すか」を決めます。

これがgatekeepingです。

一方、インターネット上では大量の情報そのものが公開され、人々がその情報を発見し、共有し、評価し、解説し、重要度を付けていきます。

Brunsはこのような情報環境を、従来型のゲートキーピングとは異なる「ゲートウォッチング」として説明しました。

非常に単純化すれば、

従来型メディアは公開前に選別する。

SNSは公開された後で社会全体が選別する。

という違いです。

もちろん、この違いには長所と短所があります。

SNSには偽情報も大量に流れる

SNSでは、報道機関の編集部を通らずに情報を公開できます。

これは情報流通を開放しますが、同時に、

誤認、

デマ、

偽画像、

偽動画、

切り抜き、

陰謀論、

知識のない人による断定、

意図的な虚偽、

まで同じ場所に流れ込むことを意味します。

Twitterを対象にした大規模研究では、検証された虚偽ニュースは真実のニュースより速く、広く伝播する傾向が確認されています。

したがって、

SNSには編集者がいないからSNSの方が正しい

とは言えません。

むしろ個々の情報については、既存報道機関より品質のばらつきがはるかに大きいと考えるべきでしょう。

しかしSNSには「公開後の訂正能力」がある

その一方で、SNSには従来型報道とは違う強みがあります。

間違った情報が公開されたとき、第三者が同じ場所で反論できることです。

「この写真は今回の事件ではなく、5年前の写真です」

「この数字は統計原表を見ると違います」

「この法律にはそのような規定はありません」

「この映像の場所は地形から見て別の地域です」

といった指摘を、報道機関の社員でなくても行えます。

そして、その訂正もまた第三者から検証されます。

このような分散型検証が実際に機能する例の一つが、XのCommunity Notesです。

2025年にPNASに掲載された研究では、Community Noteが付いた後、対象投稿のリポストや「いいね」などが有意に減少しました。さらに2026年のNature Communications掲載研究でも、Community Notesが表示された後には誤解を招く投稿のその後の拡散が大きく減少することが示されています。ただし、注記が付くまでに時間がかかり、その間に拡散してしまうという弱点もあります。

つまり、

大衆による分散型の検証には、本当に訂正能力があります。

ここはSNSの重要な特徴です。

SNSでは発信権と検証権が分散した

既存報道では、

記者が取材し、

編集部が検証し、

編集部が選び、

社会へ発信します。

検証の多くは公開前、つまり報道機関内部で行われます。

SNSでは、

発信者Aが投稿し、

専門家Bが反論し、

当事者Cが資料を出し、

一般人Dが過去映像を発見し、

別の専門家EがBの説明を修正する、

ということが同じ公開空間で起こります。

ここでは、

情報の作成者

と、

情報の検証者

が固定されていません。

誰でも発信者になれるのと同じように、誰でも監視者になれるのです。

これは従来型メディアにはなかった大きな変化です。

ただしSNSにも「編集者」は存在する

それでもSNSを完全な無編集空間と考えるのは間違いです。

SNSでは、ほぼ誰でも投稿できます。

しかし投稿された情報のすべてを、すべての利用者が見るわけではありません。

何をタイムラインへ表示するか。

どの投稿をおすすめするか。

何を検索結果の上位へ出すか。

どの動画を次に再生させるか。

そこには推薦アルゴリズムがあります。

現在の研究でも、デジタル時代のニュース流通は、報道機関だけでなく、利用者、プラットフォーム、アルゴリズムなど複数の主体によって選別される構造へ変わったと整理されています。

したがって、

新聞時代には編集者が情報の入口を管理した。SNS時代には投稿の入口は開いたが、情報の可視性をアルゴリズムが強く左右するようになった。

と考える方が正確です。

ゲートキーパーが完全に消えたわけではありません。

ゲートの位置と管理者が変わったのです。

「オールドメディア」と「SNS」の二者択一ではない

日本では新聞やテレビを「オールドメディア」と呼ぶことがあります。

英語圏では、同様の文脈で legacy mediatraditional media、場合によっては mainstream media などの語が使われます。

しかし問題を、

既存メディアかSNSか

という二者択一にしてしまうと、本質を見失います。

既存報道機関には、

専門記者、

継続取材、

海外支局、

取材網、

資料確認、

法務チェック、

編集、

訂正制度、

といった大きな強みがあります。

一方SNSには、

当事者による直接発信、

専門家による即時検証、

一次資料への直接アクセス、

異なる見解の並存、

報道機関そのものへの監視、

という強みがあります。

2026年のReuters Institute『Digital News Report』でも、世界的にニュース接触がSNSや動画プラットフォームへ移行する一方、SNS上のニュースへの信頼は従来型ニュースより低く、偽情報への懸念も強まっているという、一見矛盾した状況が確認されています。

これは当然なのかもしれません。

SNSは、

信頼できる情報だけを並べる場所ではなく、情報そのものを社会へ開放する場所

だからです。

「編集されているから正しい」とも限らない

ここで重要なのは、「編集」という言葉には二つの異なる機能が含まれていることです。

一つは、

誤りを取り除く編集

です。

複数の情報源を確認する。

数字を確認する。

誤解を招く表現を修正する。

これは情報の信頼性を高めます。

もう一つは、

何を人々に見せるかを決める編集

です。

何を報道するか。

何を報道しないか。

どの記事を一面に置くか。

何秒放送するか。

どの発言を見出しにするか。

こちらは情報の品質管理であると同時に、情報選択の権力でもあります。

したがって、

「職業人が編集した情報だから信頼できる」

という命題は、半分は正しく、半分は不十分です。

個々の記事の正確性は高まるかもしれません。

しかし、その記事だけを読むことで社会全体について正確な認識を得られるとは限りません。

「SNSの方が正しい」とも簡単には言えない

逆に、

「SNSは情報が開放されているから、既存報道より正しい」

とも一般化できません。

SNSには大量の誤情報があります。

しかし、より重要なのは、利用者がどのように使うかによってSNSの情報価値が大きく変わることです。

投稿をそのまま信じる人にとって、SNSは危険な情報源になり得ます。

しかし、

一次資料を確認する、

複数の発信者を比較する、

専門家の反論を読む、

元映像を探す、

統計原表を見る、

異なる立場からの説明を比較する、

という使い方をする人にとっては、非常に強力な情報環境になります。

つまりSNSは、

完成したニュースを受け取る場所

というより、

自分で情報を組み立て直せる場所

なのです。

職業ジャーナリズムの価値はなくなっていない

SNSが発達したからといって、職業ジャーナリズムが不要になったわけではありません。

むしろ情報量が増えれば増えるほど、

現地へ行く、

当事者へ取材する、

資料を発掘する、

長期間調査する、

専門知識を持つ記者を配置する、

権力者へ質問する、

といった職業的な報道活動の価値は残ります。

Reuters Instituteの2026年調査でも、人々のニュース消費はプラットフォームへ移っていますが、個々の主要ニュースブランドへの信頼はニュース全般への信頼より比較的維持されています。また、45%の回答者が「特定の立場を持たないニュース源」を好むと回答しており、中立的・公平なニュースを求める需要そのものが消えたわけではありません。

したがってSNS時代に問題になっているのは、ジャーナリズムが不要になったことではありません。

ジャーナリズムだけが情報流通を独占する時代が終わったことです。

私たちは「メディア」ではなく情報生成過程を見る必要がある

では、新聞、テレビ、SNSのどれを信じればよいのでしょうか。

私は、「どの媒体を信じるか」という考え方自体を少し変えた方がよいと思います。

見るべきなのは、

誰が最初の情報源なのか。

一次資料は存在するのか。

誰が取材したのか。

誰が編集したのか。

反対する証拠はないのか。

どの情報が省略されているのか。

誰がその報道を経済的に支えているのか。

誤りが見つかったとき訂正されるのか。

といった、情報が作られて流通する過程です。

新聞だから正しい。

SNSだから嘘。

専門家だから正しい。

一般人だから信用できない。

という判断では、現在の情報環境を理解するには粗すぎます。

まとめ|情報選択権と検証責任は私たちへ戻ってきた

報道の歴史を振り返ると、報道は最初から完全に中立な制度として存在したわけではありません。

政治、商業、社会的需要など、さまざまな目的とともに発達してきました。

商業化は報道を政治勢力から独立させる経済基盤を作る一方、市場や読者の関心という新たな圧力を生みました。

職業ジャーナリズムは、取材、検証、編集、訂正などの手続きを発達させることで情報の信頼性を高めました。

しかしその仕組みは同時に、何をニュースとして社会へ流すかという強い選択権を、新聞社や放送局など少数の組織へ集中させました。

そしてSNSは、その構造を大きく変えました。

誰でも情報を発信できる。

誰でも報道を批判できる。

専門家も当事者も一般人も、同じ情報空間で検証に参加できます。

その代わり、編集部が公開前に担っていた真偽判定の一部を、私たち自身が担わなければならなくなりました。

だから私は、近代ジャーナリズムとSNSの違いを、最終的に次のように整理したいと思います。

近代ジャーナリズムは、情報の信頼性を高める代わりに情報選択を少数の職業人へ集中させた。SNSはその情報選択権を大衆に開放した代わりに、真偽判定まで利用者側へ戻した。

これは、新聞やテレビを捨ててSNSだけを見ればよいという意味ではありません。

SNSを無条件に信用せよという意味でもありません。

情報を選ぶ権利を私たちが取り戻した以上、その情報を検証する責任もまた私たちへ戻ってきた。

それが、報道とジャーナリズムの歴史の先に現れた、現在の情報社会なのだと思います。

作成者: 理屈コネ太郎

元消化器内視鏡医・産業医。現在は社会・人間行動・構造分析をテーマに執筆活動を行う。定年退職後はヨット・ボート・クルマなど趣味と構造研究の日々を過ごす。

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