ギャルとは何か。
還暦を迎えた男性である私が、この問いについて考えるのは、少し不思議なことかもしれません。
私はギャル文化の当事者ではありません。
若年女性文化の内側にいたこともありません。
ですから、ここで書くことは、ギャル文化の正しい定義でも、当事者の声を代弁するものでもありません。
あくまで、中高年男性の側から、ギャルという存在をどう見れば少し理解できるのか、という考察です。
ギャルという言葉から、多くの中高年男性がまず思い浮かべるのは、外見でしょう。
明るい髪色。
濃いメイク。
派手なファッション。
強めの言葉遣い。
テンションの高い会話。
仲間同士で固まっている感じ。
そこだけを見ると、ギャルは「派手な若い女性」「軽そうな女性」「自分とは関係のない世界の人」に見えるかもしれません。
しかし、少し距離を置いて考えてみると、ギャルとは単なる外見の分類ではないように思えます。
ギャルとは、ひとつの在り方です。
もっといえば、若年女性が仲間とともに一時的に立ち上げる、自己肯定の文化ではないか。
私は最近、そんなふうに考えています。
Contents
ギャルはいつ社会に見える形で現れたのか
ギャル的なものは、いきなり現れたわけではありません。
若い女性が流行を取り入れ、少し大人びた格好をし、既存の規範から外れていく動きは、以前からありました。
ただ、いわゆるギャル文化が社会的に強く目立つようになったのは、やはり1990年代半ばから後半、そして2000年代初頭にかけてだったように思います。
渋谷。
女子高生文化。
コギャル。
ルーズソックス。
茶髪。
日焼け。
ガングロ。
プリクラ。
ギャル雑誌。
携帯電話。
仲間内の言葉とノリ。
これらが結びついて、ギャルは単なるファッションではなく、ひとつの文化として見えるようになりました。
当時の社会には、若い女性に対して、清楚であれ、控えめであれ、黒髪であれ、従順であれ、という期待がまだ強く残っていました。
その中でギャルは、そこから横に外れました。
「私たちはこれがかわいい」
「ウチらはこれでいい」
「分からない人には分からなくてもいい」
そう言っているように見えたのです。
もちろん、実際の当事者がそこまで言語化していたかは分かりません。
しかし、外側から見ると、ギャル文化にはそういう姿勢があったように感じます。
ギャルは「私流」ではなく「ウチら流」である
ギャルを考えるとき、私は最初、「自分の価値は自分で決める女性たち」と捉えようとしました。
それは半分は合っていると思います。
ギャルには、世間一般の評価に従わない強さがあります。
しかし、よく考えると、ギャルは完全な個人主義ではありません。
ギャルの価値判断は、ひとりの内面だけで完結しているわけではない。
むしろ、
「ウチら的にかわいい」
「ウチら的に盛れている」
「ウチらのノリ」
「ウチらの中ではアリ」
という、仲間内の価値基準が大きい。
つまりギャルは、「私は私」と一人で立つ存在というより、
「ウチらはウチら」と仲間内で価値を作る存在です。
ここが重要です。
ギャルは孤高の個人ではありません。
一匹狼のギャルも存在はするでしょうが、ギャル文化の中心にあるのは、やはり「ウチら」です。
一人で派手な髪にする。
一人で濃いメイクをする。
一人で強い服を着る。
それも可能です。
しかし、ギャル文化の熱は、仲間と褒め合い、盛り合い、笑い合い、場を明るくしながら、自分たちの価値を増幅していくところにあります。
ギャルは「私流」ではなく、「ウチら流」なのです。
量産型とは何か
ギャルを考えるうえで、対比しやすいのが「量産型」です。
量産型という言葉は、少し冷たい言葉です。
同じような髪型、同じようなメイク、同じような服、同じような雰囲気に見える若い女性たちを指して、やや揶揄的に使われることがあります。
中高年男性から見ると、量産型は、個人としての印象が残りにくい。
誰が誰だか分からない。
強い個性が見えない。
無味無臭に見える。
無色透明に見える。
悪く言えば、味がない。
そう感じる人もいるでしょう。
では、量産型とは、単に「男性にモテるため」の装いなのでしょうか。
ここは少し丁寧に考える必要があります。
若い女性の服装やメイクは、男性の視線だけで決まるわけではありません。
同性同士の評価もあります。
友人集団の中で浮かないことも大切です。
SNSで違和感なく見えることもあります。
流行を理解していることを示す意味もあります。
イベントや学校や街の空気に合わせる意味もあります。
ですから、量産型を単純に「男にモテるため」と決めつけるのは雑です。
ただし、量産型には、広い意味で「外部から減点されにくい」という機能があります。
派手すぎない。
地味すぎない。
怖く見えない。
変に見えない。
流行から外れていない。
最低限かわいく見える。
集団内で浮かない。
つまり、量産型とは「強く選ばれるため」というより、まず「弾かれないため」の装いなのではないかと思います。
恋愛でいえば、熱烈に指名されるためというより、最初から候補外にされないため。
社会的な場でいえば、目立って評価されるためというより、悪目立ちして減点されないため。
そういう意味で、量産型は「門前払いを食らわないため」の技法に見えます。
これは馬鹿にしているのではありません。
むしろ、とても合理的です。
社会は、目立つ人間に優しいとは限りません。
特に若い女性にとって、外見で余計な摩擦を生まないことは、一種の安全策でもあります。
量産型は、強い自己表現ではなく、標準への適応です。
量産型は薄まり、ギャルは濃くなる
ここで、ギャルと量産型の違いが見えてきます。
量産型は、広い外部評価に合わせて、自分の角を丸める。
ギャルは、仲間内の価値基準に合わせて、自分たちの濃さを増す。
量産型は、広い世間に対して「外していません」と示す。
ギャルは、仲間や分かる人に対して「ウチらはこうです」と見せる。
量産型は、透明化によって安全を得る。
ギャルは、可視化によって自己肯定を得る。
量産型は薄まる。
ギャルは濃くなる。
この対比は、かなり分かりやすいと思います。
もちろん、現実の人間はこんなに単純には分けられません。
ギャル的な人が量産型の服を着ることもあるでしょう。
量産型に見える人の中に、強い自己決定性があることもあるでしょう。
外見はギャルでも、内面は仲間内の評価に苦しんでいる人もいるでしょう。
しかし、文化の構造として見れば、
量産型は「広い外部評価に外れないための在り方」。
ギャルは「仲間内の価値圏で濃くなる在り方」。
そう言えるのではないかと思います。
ギャルの「分かる人に分かればいい」は強がりでもある
ギャルには、
「ウチらを分かる人に分かればいい」
「分からない人には分からなくてもいい」
「でも、存在は見せる」
という姿勢があります。
これは強いです。
しかし、完全な自立ではありません。
そこには、かなりの強がりも含まれていると思います。
なぜなら、世間はそんなに甘くないからです。
人は、他者に認められなければ職業に就けません。
職業に就けなければ、生活を維持できません。
採用される。
上司に評価される。
顧客に選ばれる。
同僚と協働する。
取引先に信用される。
これらはすべて、外部評価です。
雇用社会は、基本的にこう問いかけてきます。
「あなたはこちらの基準に合わせられますか」
時間を守れるか。
服装を調整できるか。
言葉遣いを切り替えられるか。
感情を抑えられるか。
組織の目的に従えるか。
相手に不安を与えないか。
この世界では、ギャルの「ウチらはウチら」という姿勢は、そのままでは通用しにくい場面があります。
だから、ギャル文化の中心的な担い手が若年女性になるのは自然です。
若年期は、まだ社会に完全には回収されていません。
学校、友人、街、SNS、ファッション、遊び場のあいだに、自分たちだけの空間を作る余地があります。
その隙間で、ギャルは「ウチらの世界」を立ち上げる。
しかし、その世界は永続しにくい。
社会に出ると、多くの場合、調整が必要になります。
髪色を抑える。
メイクを変える。
服装を変える。
言葉遣いを変える。
職場では落ち着く。
相手に合わせる。
外見としてのギャルは、だんだん薄まっていくことが多い。
それは敗北とも言えます。
しかし、成熟とも言えます。
若い頃の濃いギャル性を、そのまま社会に持ち込める人は少数派でしょう。
美容、アパレル、ネイル、夜職、SNS、クリエイター、インフルエンサー、個人事業など、自分のキャラクターや世界観を商品にできる人なら、ギャルマインドを高い純度で維持できる場合もあります。
しかし、それも簡単ではありません。
個人事業主として生きるには、集客力、継続力、信用、金銭管理、顧客対応、技術、自己管理が必要です。
つまり、ギャルマインドを維持するには、逆説的にかなり高い社会適応能力が必要になる。
ここが面白いところです。
「世間なんか関係ない」と言いながら生きるためには、実は世間と渡り合う力が必要なのです。
清楚系にもギャル的マインドはありうる
ここで、外見と精神性を分けて考える必要があります。
たとえば、ある若い女性がいたとします。
彼女は、自分の可愛さや自分の価値を、自分で研究している。
髪型、メイク、服装、姿勢、話し方、写真の写り方まで、いろいろ試している。
その結果、たどり着いた表現が、黒髪、薄いメイク、上品な服、落ち着いた振る舞いだったとします。
外見分類としては、これは清楚系でしょう。
しかし、その清楚さが、親や学校や男性や社会に合わせた結果ではなく、自分で研究し、自分で選び、自分を最もよく表現する技法として採用されたものなら、そこにはギャル的な精神があります。
つまり、
マインドはギャル的。
表現技法は清楚系。
ということがありうる。
逆に、外見は派手でも、すべてが仲間内の評価に従うだけで、本人の納得が薄い場合もあるかもしれません。
だから、ギャルを外見だけで判断するのは危うい。
清楚だから従順とは限りません。
派手だから自由とも限りません。
大事なのは、誰が価値を決めているのかです。
世間が決めているのか。
男性目線が決めているのか。
親や学校が決めているのか。
SNSが決めているのか。
仲間内が決めているのか。
本人が納得して選んでいるのか。
この価値決定の場所を見ると、若い女性の在り方はかなり立体的に見えてきます。
ギャルは日本に固有なのか
若者が外見によって大人社会から距離を取ることは、日本だけの現象ではありません。
パンク、ロック、ヒップホップ、クラブカルチャー、ストリートファッションなど、世界中に似たような若者文化はあります。
若者が髪型や服装や音楽や言葉によって、自分たちの価値圏を作る。
これはかなり普遍的な現象です。
しかし、日本のギャル文化には、やはり日本的な要素があります。
女子高生という記号。
制服を崩す文化。
渋谷という都市空間。
「かわいい」という独特の価値。
プリクラやギャル雑誌や携帯文化。
清楚、黒髪、色白、控えめといった女性規範への反発。
これらが組み合わさって生まれたギャル文化は、かなり日本的です。
つまり、若者が外見で社会規範から距離を取ることは普遍的。
しかし、ギャルの形でそれが現れたことは、日本の都市文化、女子高生文化、かわいい文化と深く結びついている。
そう考えるのが自然ではないかと思います。
男性におけるギャル的マインド
では、男性にもギャル的マインドはあるのでしょうか。
あると思います。
男性にも、
「自分の価値は自分で決める」
「世間に分かられなくてもいい」
「自分のやり方で通す」
「外部評価に合わせて薄まらない」
という人は普通にいます。
ただし、男性の場合、それをひとことで括る言葉は、ギャルほど明確ではありません。
近い言葉はいくつかあります。
まず、傾奇者。
戦国末期から江戸初期の、派手な風俗や異端の振る舞いで世間から外れた男たちです。
傾奇者には、「俺は世間の普通には従わない」という美意識があります。
次に、ヤンキー。
ヤンキー文化には、仲間、義理、地元、強さ、上下関係、自分たちの掟といった要素があります。
ギャルと同じく、仲間内の価値圏を作る点では近い。
ただし、ギャルが「かわいさ」や「ノリ」で場を作るのに対して、ヤンキーは「強さ」や「義理」で場を作る傾向があります。
また、「男気」という言葉もあります。
これは外見文化というより倫理です。
他人にどう見られようと、筋を通す。
逃げない。
約束を守る。
弱い者を見捨てない。
そういう価値観です。
さらに、ロックな人、パンクな人という言い方もあります。
世間に合わせず、自分の表現や美学を優先する人たちです。
そして、日常語として一番近いのは「俺流」かもしれません。
俺流とは、他人に合わせず、自分のやり方でやるという姿勢です。
ただし、ギャルをそのまま「俺流の女子」と言ってしまうと、少しズレます。
なぜなら、俺流は基本的に個人の言葉だからです。
「俺は俺」
「俺のやり方でやる」
「分からないなら分からなくていい」
これが俺流です。
一方、ギャルは、
「ウチらはウチら」
「ウチらのノリでいく」
「ウチら的にかわいい」
「分かる人に分かればいい」
です。
つまり、ギャルは「俺流の女子」ではなく、「ウチら流の女子」なのです。
俺流の男は、一人で濃くなる。
ギャルは、ウチらで濃くなる。
この違いは大きいと思います。
傾奇者とギャルの違い
男性文化でギャルに近いものを探すと、傾奇者という言葉はかなり面白い比較になります。
傾奇者も、ギャルも、世間の標準から外れます。
どちらも派手です。
どちらも普通の美意識に従いません。
どちらも自分の存在を強く見せます。
しかし、精神の向きは違います。
傾奇者は、どちらかといえば「俺を見ろ」です。
自分の異様さ、自分の美学、自分の覚悟を、世間に突きつける。
それに対してギャルは、「ウチらはこう」です。
一人で世間に名乗りを上げるというより、仲間と一緒に場を作る。
傾奇者は名乗る。
ギャルは盛る。
傾奇者は、自分の美学を世間に突きつける。
ギャルは、自分たちの場を明るく成立させる。
この違いも、ギャルを考えるうえで大切です。
ギャルとは、世間に勝つ思想ではない
ここまで考えてくると、ギャルとは、世間に勝つ思想ではないと思えてきます。
ギャルの「ウチらはウチら」は強い。
しかし、仕事、収入、信用、社会的立場、年齢、健康、家族といった現実の前では、仲間内の価値だけでは生きられません。
だから、ギャル文化には最初から儚さがあります。
若年期だからこそ燃え上がる。
社会に完全に回収される前だからこそ成立する。
大人になるにつれて、多くの場合、調整され、薄まり、形を変えていく。
しかし、儚いから無意味なのではありません。
若い時期に、
「ウチらはこれでいい」
「ウチらはかわいい」
「ウチらはここにいる」
「分からない人には分からなくてもいい」
と一度でも言えることには、大きな意味があるのではないでしょうか。
それは、社会制度に勝つための完成された思想ではありません。
しかし、世間の評価に潰されないための一時的な足場にはなる。
ギャルとは、世間に回収される前に、ウチらの世界を一瞬でも立ち上げる態度なのかもしれません。
中高年男性は、ギャルを馬鹿にしない方がいい
中高年男性は、ギャルを見ると、つい軽く見てしまうことがあります。
若い。
派手。
うるさい。
浅い。
長続きしない。
社会に出れば通用しない。
そう思う気持ちは分かります。
そして、半分くらいは当たっているかもしれません。
ギャルマインドは、そのまま雇用社会に勝てる思想ではありません。
仲間内の価値だけで人生が成立するわけでもありません。
大人になれば、多くの場合、調整を迫られます。
しかし、それだけでギャルを切り捨てるのは浅いと思います。
なぜなら、中高年男性もまた、社会に合わせるうちに、自分を薄めてきた存在だからです。
若い頃は、自分のやり方があった。
好きなものがあった。
他人に分かられなくてもいいと思えるものがあった。
無駄に熱くなれるものがあった。
しかし、仕事、家庭、世間体、失敗経験、責任、加齢によって、だんだん自分を外に出さなくなる。
好きなものを好きと言わない。
楽しそうにすることを恥ずかしがる。
新しいものを拒む。
褒めることを照れる。
場を明るくするより、無難にやり過ごすことを選ぶ。
そうやって、人はだんだん薄まっていきます。
その意味で、ギャルは中高年男性にとって、遠い若者文化であると同時に、自分が失ったものを映す鏡でもあります。
ギャルから学ぶべきなのは、外見ではありません。
還暦男性が無理にギャルの格好をしても、それは仮装です。
痛々しくなるだけでしょう。
学ぶべきなのは、態度です。
自分を薄めすぎないこと。
好きなものを好きと言うこと。
場を暗くしすぎないこと。
楽しそうにすることを恥じないこと。
分からない人には分からなくても、自分の中の濃さを完全には捨てないこと。
これは、若者だけの課題ではありません。
ギャルとは何か
結局、ギャルとは何か。
ここで強く定義することは避けたいと思います。
当事者でもない還暦男性が、若年女性文化を上から定義するのは無理があります。
ただ、外側から考察するなら、ギャルとはこういう存在ではないかと思います。
ギャルとは、単なる派手な若い女性ではありません。
ギャルとは、世間一般の評価軸から少し横に外れ、仲間内で自分たちの価値を作る存在です。
量産型が、広い外部評価に外れないために自分を薄める在り方だとすれば、
ギャルは、広い外部評価から外れても、ウチらで濃くなる在り方です。
男性でいえば、「俺流」に近い。
しかし、ギャルは「俺流の女子」ではありません。
より正確には、「ウチら流の女子」です。
俺流の男は、一人で濃くなる。
ギャルは、ウチらで濃くなる。
そこには強さがあります。
同時に、強がりもあります。
社会に出れば調整も必要になります。
多くの場合、その濃さは若年期特有のものとして薄まっていきます。
しかし、それでも意味はある。
社会に完全に回収される前に、
「ウチらはウチらでいい」
と言ってみる。
それは未成熟な反抗かもしれません。
しかし同時に、かなり切実な自己肯定でもあります。
ギャルとは、人生を重くしすぎないために、仲間とともに自分たちの価値を盛る文化なのかもしれません。
そして中高年男性にとっても、そこには考える価値があります。
なぜなら、私たちもまた、社会に合わせて生きる中で、自分の濃さを失いやすいからです。