釣りをしてみたいけど残酷かもしれない ☆ 始める前に整理したこと

はじめに

釣りをしてみたい。

しかし同時に、こうも思いました。

「魚を苦しめるだけなのではないか」

「食べない魚を釣るのは残酷ではないか」

釣りに興味を持ちながら、始める前にこの疑問を抱くのは自然なことだと思います。

私も長いあいだ、この問いを整理できずにいました。

技術や道具の問題ではありません。

釣りという行為を、自分の中でどう位置づけるかが定まらなかったのです。

本記事では、私がその葛藤をどのように整理し、釣りを始めようと思うに至ったのかを共有します。


釣りに踏み出せなかった理由

私にとって釣りは、単なる娯楽ではありませんでした。

少なくとも私の中には、魚を探し、仕掛けを工夫し、狙った魚を掛けてみたいという狩猟的な欲求があります。

しかし、魚の命を奪いたいわけではありません。

釣ってみたい。

けれど、殺したいわけではない。

この矛盾を整理できませんでした。

魚を釣るとは何なのか。

単に魚を傷つけ、命を奪う行為なのか。

それとも、人間と魚の間に成立する一つの勝負なのか。

自分なりの答えが見つからない限り、私は釣りを始められませんでした。


自然界の捕食を「勝ち負け」で捉える

自然界の捕食を、私たちが使う「勝ち負け」という概念に置き換えて考えてみます。

もちろん、これは同じ条件を与えられた者同士が競う、対等な勝負ではありません。

捕食者は被捕食者を捕らえて食べようとし、被捕食者は捕食者から逃れて生き延びようとします。両者の目的も、置かれている立場も異なります。

それでも、一回の捕食について見れば、その成否には勝敗に相当する結果があります。

捕食者が被捕食者を捕らえられなかったとき、それは同時に、被捕食者が逃げ切ったことを意味します。

この場合、生き残った被捕食者は敗者ではありません。その一回の勝負に勝ったから、生き残ったのです。

反対に、捕食者が被捕食者を捕らえれば、捕食者の勝ちであり、被捕食者の敗北です。

そして自然界の通常の捕食関係では、被捕食者の敗北は死へ続きます。

捕食者に追われただけなら、まだ勝負は決まっていません。

しかし、逃げ切れずに捕らえられれば、その被捕食者は通常、食べられて死にます。


釣りでは、人間が被捕食者を装う

釣りは、捕食の構造を利用して人間が魚を捕らえる行為です。

最終的に魚を捕らえようとしているのは人間です。したがって、釣り全体を見れば、人間は捕食者の側にいます。

ところが釣りでは、その人間が餌や疑似餌を通じて、被捕食者の側を演じます。

魚から見れば、目の前に現れたのは食べられそうな小魚や生物です。

対象魚は一時的に捕食者の立場となり、それを追い、口にしようとします。

つまり釣りとは、最終的な捕食者である人間が、餌や疑似餌を自分の代理として差し出し、対象魚の摂餌行動を引き出す行為です。

とりわけルアーフィッシングでは、被捕食者に見せかけた疑似餌によって、対象魚の捕食本能をどこまで刺激できるかが勝負の核心であり、釣りの肝でもあります。

魚が餌やルアーを見切り、食いつかなければ、人間の戦術は失敗です。

その勝負では、人間の負けであり、魚の勝ちです。

魚が食いついても、フックを外したりラインを切ったりして逃げ切れば、やはり魚の勝ちです。

反対に、人間が対象魚の摂餌行動を引き出し、フックを掛け、最後まで取り込めれば、人間の勝ちであり、魚の敗北です。

釣りは、人間が魚を一方的に拘束するところから始まるのではありません。

人間の仕掛けと魚の捕食判断が接続したところから始まる勝負なのです。

もちろん、これは魚が釣られることに同意したとか、食いついた魚の自己責任だという意味ではありません。

仕掛けを用意し、魚の摂餌行動を利用しているのは人間です。その責任が消えるわけではありません。

ただ、魚を初めから終わりまで完全に受動的な存在として捉えるだけでは、釣りの構造を正確には表せないと思うのです。


リリース前提という選択肢

やがて私は、キャッチ&リリースを前提とする釣りについて考えるようになりました。

しかし、リリースなら何の問題もない、と単純には思えませんでした。

魚はフックによって傷つき、ファイトによって消耗します。水から出されることも負担になります。

リリースしても、魚が必ず生き残るとは限りません。

「食べない魚を、人間の楽しみのために傷つけるのは残酷だ」という意見も理解できます。

その一方で、自然界の捕食では、被捕食者が逃げ切れば被捕食者の勝ちであり、捕食者の負けです。

反対に、被捕食者が捕らえられれば、捕食者の勝ちであり、被捕食者の敗北は通常、死へ続きます。

釣りでも、人間が魚を取り込んだ時点で、人間の勝ちと魚の敗北は成立しています。

従来の人間と魚の関係では、その先に魚の死が続きました。

捕まえ、殺し、食べる。

キャッチ&リリースが加えたのは、そこから先の異なる結末です。

人間が勝ち、魚が敗北した後にも、その魚を殺さず、生きたまま水へ還す。

自然界の通常の捕食関係から見れば、それは、捕食者に敗れた被捕食者が生き残るという例外的な結末です。

この構造については、別記事
キャッチ&リリースは残酷か?|自然界の捕食と生存可能性から考える
で詳しく考えています。

ただし、キャッチ&リリースが自然の外側にあるわけではありません。

人間も自然の中に生きる動物です。人間が魚を釣り、考えた末に殺さず還すことも、人間を含む自然の中で起きている事象です。

それでも、太古から続く釣りの歴史と比べれば、「捕まえても殺さず、生きて還す」という結末は極めて新しい。

その歴史の浅さゆえに、現時点ではまだ例外的な関係だと考えられます。

しかし、キャッチ&リリースが今後も数百年、数千年と続けば、やがてそれも、人間と魚の間に長く続く通常の関係の一つとして、自然史の中に定着していくでしょう。

つまりキャッチ&リリースは、自然の外にあるから例外なのではありません。

釣りの長い歴史の中では、まだ新しいから例外的なのです。


人間の矛盾と本能

人間は矛盾を抱えた存在です。

動物や魚を殺して食べる一方で、犬や猫を愛し、その命を大切にします。

命を奪うことと、命を慈しむことが、同じ人間の中に共存しています。

私の中にある「魚を釣ってみたい」という欲求も、そうした人間の狩猟的な性質の一つなのだと思います。

魚を見つけたい。

仕掛けを工夫したい。

魚の行動を読みたい。

自分の仕掛けに反応させ、掛けた魚を取り込みたい。

そこには、単なる食料の獲得だけでは説明できない楽しさがあります。

問題は、その欲求が存在すること自体ではなく、どう扱うかです。

私は、釣りたいという感覚を否定するのではなく、魚への負担も否定せず、その両方を認めたうえで、どのような釣り方なら自分なりに責任を引き受けられるのかを考えました。


私の整理

ここまで考えたことで、私の問題は「釣りが完全に善か悪か」を決めることではないと分かりました。

魚への負担を認めたうえで、どのような釣り方であれば、自分がその責任を引き受けられるのか。

私にとって重要だったのは、そこでした。

釣りは、魚に何の負担も与えない行為ではありません。

リリースを前提にしても、フックによる損傷やファイトによる消耗は生じます。

その事実を消すことはできません。

一方で釣りは、人間が自然の外側から突然持ち込んだ異物でもありません。

人間と魚の間に、太古から続いてきた事象の一つです。

そしてキャッチ&リリースは、その長い関係の中に、

「人間が魚を捕らえて勝った後にも、その敗者を殺さず、生きて還す」

という新しい結末を加えます。

キャッチ&リリースは、釣りを無害にする免罪符ではありません。

人間の釣りたいという欲求を認めながら、捕獲の先を必ずしも死にしないための折衷です。

だからこそ、リリースを前提に釣るのであれば、魚への負担をできるだけ減らす方法を学ばなければなりません。

必要以上にファイトを長引かせない。

魚を空気中に出している時間を短くする。

魚体を乱暴に扱わない。

魚種、水温、水深などに応じた扱い方を学ぶ。

可能な限り、生存可能性を高めた状態で水へ還す。

そこまで含めて引き受けるのであれば、私は釣りを始めてもよいと思えるようになりました。


おわりに

釣りが残酷かどうか。

単純な答えはありません。

私も、キャッチ&リリースなら残酷ではないと証明できたから、釣りを始めようと思ったわけではありません。

魚への負担は残ります。

人間の楽しみのために魚を釣るという矛盾も消えません。

考えたからといって、その負担がなくなるわけでもありません。

それでも、何を魚に負わせるのかを理解し、その負担をできるだけ減らし、捕獲の先に死以外の結末を選ぶことはできます。

私は、その責任を引き受けながら釣りを始めようと考えました。

釣りたいという自分の欲求を否定せず、同時に魚の生存可能性もできる限り残す。

それが、釣りを始める前に私が整理した答えです。

作成者: 理屈コネ太郎

元消化器内視鏡医・産業医。現在は社会・人間行動・構造分析をテーマに執筆活動を行う。定年退職後はヨット・ボート・クルマなど趣味と構造研究の日々を過ごす。

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